僕、小笠原毅は同性愛者なんです (2009/06/16)
■12:30 09/06/17
「自分はゲイだ」とカミングアウトしてからこのブログで一夜明け、僕自身一晩眠ったところで何となく落ち着きを戻しました。
ひとまずコメントしてくださった方、メールくださった方、ありがとうございました。落ちついたは落ちついたものの、自分でもまだなんと返事していいのかわからず、「さてどうしよう」というのが正直なところなので、以後も記事を見守っていただけるとありがたいです。そちらの方に返信的なものは浮上してくるんじゃないかと思います。
あと、個人的な心性から付け加えますが、「コメントくれなかった人はありがとうございません」という意味ではないので、「コメントをしたくてもなんとしていいのかわからない」という感じの方々、そこは安心(?)してください。ある意味じゃこの問題(?)は、語ろうとする人の喉を閉じさせる問題らしいので。
しかしブログでカミングアウトするのでこんな感じになるんだとすると、いつかどこかで本名と自分のこの身体を同一性としてカミングアウトするときがくるなら、どんなことになるのかなぁ……。このブログでのことが前段階として働いてくれればいいんだけど。
以下昨日と同様に、時間をスタンプした上で思いついたことを色々書いていこうと思います。
(こうやって書くと、なんだか”(普通の)ブログのお知らせ”みたいだなあ。こうやって僕はブログ文化、ネット文化にようやく接続していくのかな、そんな感じなのかも)
■12:37 09/06/17
考えていた。昨日は勢いに任せて随分と余計なことも書いたように思う。
でも、これはあくまで想像だし俗物的で乱暴な一般化だけど、ゲイなりビアンなりバイなり無性愛なり非性愛なり、カミングアウトするときってその心性に「性的な事柄に関してはっちゃけなければいけない」っていう思いがドバーッと出てきやすいんじゃないか、と。
僕個人の体験としては、友人知人との話の流れですごく苦手だったのは、「好きなタイプは?」とか、あと「何フェチ?」とか、その他「恋バナ」的なそういうのをみんなこの際だから暴露しちゃおーとかいう空気とか。なんか誰かがそういう話をはじめて、答えなきゃいけない空気。苦手だ。
でも、みんなかなりそういう話で繋がろうとしている。「みんな同じモンがついた男同士なんだから、何が好きかなんてみんなわかってるもんなあ、ぶっちゃけちゃおうぜ」
ここで答えないと、「え、おまえじゃあこっちか?(といって手の甲を頬に当てるしぐさをする)」という事になり……って、実際ほとんどそういう場面は出くわしてこなかったし、それは何より僕がそういう場面を避けてきたからなんだけど。
でもそういう場面を恐れて避け始めると、避けなければならない場面のなんと多かった事か、という気もする。
この辺、「自分は”非コミュ”だ」と思いこんで恋愛&イケメン至上主義のリア充世界に入っていけない二次元萌えとかの人の心性とかと、案外近いんじゃないかと思っている。(二次元萌えって、もうふつうに性愛に認定しちゃっていいと思うんだけど。だめなのかなあ)
もう一つ、案外近いんじゃないかと思うのは、上司などからのねちっこいセクハラを恐れる女性との心性。
冷静に考えてみると、フェティッシュだの好きなタイプだのの話ってそんな暴露しあうようなものなのか?なんか、誰か数人が「みんなこういうエッチな話、実は好きでしょ?本当はみんなで暴露しあいたいだろ?」っていう前提を作っていて、みんなそこに巻き込まれている気がする。
と、ここまで思うとそれはなんとなく「合コン文化」とかなんかその辺りにぶつかるのかな、と思う。王様ゲームとかマジですげー恐ろしい。
(※まあ昔一度だけ主にビアンの女性が集まるオフ会で王様ゲームに参加したことあるけど。僕は一度も当たらなかった。で、その王様ゲームで、たまたまゲイ男性とビアン女性の二人が”氷を口移しする”とかいう事になってしまって「この組み合わせで氷の口移しはやる方も見る方も罰ゲーム以外の何物でもないじゃんか」という感じだった。いま思うとちょっと笑っちゃうけど、当時確か僕もまだ10代だったので、「当たったらあんなことしなきゃいけないのか!!俺のファーストキスがこんなところで消費されちゃうの!?」とか思った。)
僕が苦手な「好きなタイプは?」と「何フェチ?」は、煎じ詰めればセクハラ被害の女性と、非コミュ系男性の悩みの種に繋がるのかもしれない。
と、30分前ぐらい、昼間目が覚めた時にさっき思った。なんで思ったかというと、「ああ、昨日は性的なこと書きすぎたな」と思ったから。で、なんで自分はそこまでして性的なことを書かなければいけないと思ったのだろうと考えたら、「ああ、合コンとかのゲームとか雰囲気とか、おっさんのセクハラの影響が僕のここまで来てるのかな……」とか思った。それに、ブログ
「ニートの海外就職日記」やなんかで書かれてるらしき(※僕あんま読んでないので)日本の妙な閉塞感についてとか、ブログ
「新東大卒ニートばいお日記」でばいおたんが展開している「酒とセックス理論」なんかにも繋がるのかな、という気がする。
「日本は酒にまかせた性的な話で仲間同士繋がる部分があるんですから、社会人ならばそこに耐えて付き合わなければならない、それが仕事」とかいう言われ方をする時、率直に反論すると「じゃあゲイやビアンや無性愛等の人はどうしたらいいんですか」という感じになる。でも存外そういう「酒と性的な話ができてこその社会人なんだからガマンすべき」とか言う人も、やっぱり被害者の範疇なのかもしれない、と思ったりもする。安直だけど「実はそう言って耐えてるこの人も、所謂定型的なヘテロではないのではないか」とか思ったりも。
なんて、こんな話は散々セクマイ畑でみんな話してたり議論してたりする事なんだろうなあ。これまで僕がブログでウダウダ書いてきたことが、多分とっくに先人や哲学畑なんかではギャーオギャーオ議論されてきたであろう事と同じように。でも僕は、やっぱり一人で考えて一人で獲得しないとダメみたい。
■13:04 09/06/17
さっき、上の文章を書いていて「ヘテロ・マジョリティ、ヘテロ・マイノリティ」なんて言葉をふと思った。
ヘテロ・マジョリティっていうのはなんだろうな、合コンもすんなり享受できて、「男たるもの女を守るべし」のような考えも何も疑問がなくて、「男がなにかをする動機は全部女とデートするためじゃんか」みたいな感じの哲学があって。でもそれ、いまどきそういうありようの男性が”マジョリティ”に該当するって言えるかなあ。旧来の体育会系のイメージなだけの気がする。
■13:09 09/06/17
伊藤悟と落合恵子の対談本で、こんな話があった。
伊藤曰く、「講演会にいったら、ある男性の方から『同性愛者にレイプされたくないので見分け方を教えてくれ』とい質問があがった。それは偏見だと言ったが、その男性はしつこくそれだけを強調してくる。なのでこちらとしても、あなたが女性に対してそういう願望があるから同性愛者にもそう思うところがあるんじゃないのか、という言い方をして怒るしかなかったが、それでもその男性はその見方が変わりそうにはなかった」ということ。
現在の伊藤氏はこういう人のこういう質問とかについて軽やかにスルー&対処する術を持っているか、あるいは怒るようにしてるかなのだろうけれど、この話は僕は同性愛者への偏見という範疇で扱うよりも、セクマイ畑を抜け出して「犯罪不安」という範疇、そういう心理全般で考えた方がいいように思う。つまり、多分その人は全般的に「犯罪不安」、自分の安全がおびやかされるのではないかという不安に陥りやすい人なんじゃないか、と。それがたまたまその場では同性愛というフィルターを通して可視化された時だった、というか。
■13:16 09/06/17
ひきこもり問題にもセクュアルマイノリティ問題にも精通している人物、荻上チキ。つかマイノリティ全般に精通。
僕、荻上チキのことをずっとゲイかバイだと思いこんでた。でもある日チキたんのブログで「息子が生まれました」というエントリーがあって、「ええええ、違ったのか」と知った。
僕の中にもそういう風に見てしまうバイアスがある、という事を知った瞬間だった。
だけどこれも仕方ないといえばそうなんだよねえ、だって、まあ常にそうって訳じゃないんだけど、「この人はノンケかゲイか」っていう風なアタマは、常にどこかにあるんだもの。僕は。で、この思考回路があるのは、単純にまとめてしまうと「日常におけるゲイとの出会えなさ」から来るものなんだと思う。もひとつ言うと、思春期以降からの「ああ、好きになった人はまたも普通の人だった」という挫折体験の繰り返しから来るもの。
「この人ゲイ?orノンケ?」という見方が僕の中に植わってしまうのも自然な流れだったのかも。で、そういう見方が植わってる僕の身体は、現実に対しては”挙動不審”だとか”常に落ちついていない”などの特徴として症状化され、「小笠原さんはなんかちょっと変な人」と思われる原因にもなっていたように思う。そんでまたその周囲の「なんだこいつちょっとヘン」という視線が、僕に帰ってしてくる。そのシステムがグルグル回った結果(?)、僕は超挙動不審で色んなことに怯えるひきこもりに成り果てましたとさ(って、そんな結論づけでいいのかね)。
■13:26 09/06/17
「本日は、ひきこもり支援相談士で、同性愛者であることをカミングアウトしてらっしゃる、小笠原毅さんに来ていただきましたー。」
(拍手:パチパチパチパチ)
ただ妄想してみただけです。でもなんかそういう未来がくれば一番いいのかなあ。有り得るのかなあ。もしそうなったとして、その時僕が立ってるところはセクマイ畑かひきこもり畑か、それとも病院か。
■13:30 09/06/17
セクマイの実数は本当に掴めない訳だし、”イニス・デルマー”もやっぱり存在するだろうし、あくまで可視化されたセクマイの姿でしか把握できないけれど、それでも多くのセクマイはポジティブで建設的でそれなりにセクマイのための道具を享受してるみたい。どちらかというと”ジャック・ツイスト”。
特にmixiといったSNSを携帯であやつってれば、必ず誰かと出会えるし。
どうでもいいけどHugsのアカウントがまだ残っててびっくり。退会したと思ってたんだけどなあ。
■13:32 09/06/17
ゲイのさ、出会い掲示板なんかがある訳。僕もたまにそういうのを見る。
そうすると、やっぱ即物的な欲望がムラムラと出てきて、誰かにメールしてみたくなるし書きこみたくもなる。実際ここ一年ぐらいでもそういうやり取りをした。
でも携帯がないともうほとんどやり取りが不可能だね、そういうのは。返事がきたら即レス、「今どこよ、どういう状況、今ここ、あと5分ぐらいで帰れる、じゃあどこそこで待ち合わせ、足ある?場所ある?、そう、じゃあ待ってるから……」。こういうやり取りが遠隔操作で出来ないと、無理。結局その時も「相手:携帯、僕:パソコン」ゆえにすれ違いが生じまくって、会うことも何もすることはなかった。っつっても、もしそれで出かける事になれば僕としては数年ぶりのそういう出会いになる訳で、それゆえひきこもりで弱りきった身体には随分ダメージになったようで、そのやり取りだけで疲弊してしまって何も出来なかった、こっちからやんわりとお断りしたのだけど。
だけど数年前に解約してしまって携帯持ってなくてむしろよかったような気もする。もし携帯あってそういうことしてたら、上山和樹手記の性欲求とそれゆえしでかしてしまった事の描写じゃないけど、でもやっぱり僕はそういう方向で溺れていたんじゃないかと思う。
とは言っても、そうなった状態、エロ欲求を原動力に即物的なことを求めてる状態も、ある面ではそれは「体は家の外に出てることが継続・維持できる状態」とも言える。脱ひきこもりしたけりゃ携帯もっていざ出会い系へ!というのも、人によっては間違いじゃないかもしれない。
ただ僕の場合は、過去を振りかえっても相手の男性に依存しやすくて、軽くサクッとが無理で、すぐに重くもたれかかりたくなる場合しかなかった。その結果、気持ちがしんどくなって、何も手につかなくなる。でもそんな風に失恋(?)したことを周囲の誰にも言うことができない。ネットで仲間に報告してたことはあったけど、チャットではログが流れていってしまう。
■13:47 09/06/17
ディープすぎるでしょうか、僕の話は。少なくともヘテロ・マジョリティの男性には、相当ゲイの性的イメージが喚起されてしまい、嘔吐の感覚を覚えるものかと思う。
でも僕の本質(なるものがあるとするならば)、それはどれもこれもディープだったりするのかもしれません。単純にナルシストなだけとも言えるかもしんないけどね。
■13:49 09/06/17
昔、中学生ぐらいの時だったろうか。
毎晩、眠る前に「イエス様、目が覚めたら僕の身体は女になってますように……」と結構痛烈に祈ってた気がする。
好きな人がいたんで……。
■13:52 09/06/17
僕が持ってる写真集。
長瀬智也の。
韓国の俳優のウォンビンの。
台湾の俳優のチェン・ボーリンの。
妻夫木聡の。
ケイン・コスギの。
玉山鉄二の。
長瀬智也は、長瀬が”桜庭裕一郎”っていうドラマの役名でちょっと活動してた時期があって、その”桜庭裕一郎”の普段の姿(メガネでアタマぼさぼさ)が当時僕が付き合ってた彼氏となんとなく雰囲気が似てたので、そんでしばらく長瀬智也が好きだった。これをきっかけに、以後付き合った彼氏に雰囲気がどことなく似ているタレントを好きになり始めたりした。いまの長瀬はあんまり興味ない。
ウォンビンは、まだ「韓流」っていう(非常にマスコミの捏造くさかった)ブームが始まる直前、ネットのゲイ友達に教えてもらってしばらくの間すっかりはまってた。
チェン・ボーリンは、これもウォンビン同様にネットのゲイ友達に中国事情に詳しい奴がいて、そいつに教えてもらった。チェン・ボーリンはあんま有名じゃないけど、速水もこみちのドラマ「東京タワー」で中国人の隣人がいたでしょう、あれがボーリン。
妻夫木聡は、……あれ、これはどっちが先だったかな。これも確か付き合ってた彼氏が角度によってはちょっとブッキーっぽかった、そんでブッキーが気になり始めたとか確かそんなんだったような。今はブッキーに対しては特に何も感じない。このブッキーの写真集を買う時は、かなり工作をした。だってレジが知り合いの女性だったんだもん。僕はどこにも繋がっていない携帯を片手に、「ブッキーの写真集あったよ。ん?***円だけど。どうする、いる?ああそう、じゃあ買っといてあげるから。後でちゃんとお金はらってよー、踏み倒すなよー。じゃあひとまず俺が買っとくから。じゃあまたあとでねー、はーい」などという独り言をぶつくさ演技して、「いやあ知り合いの女の子に頼まれちゃってさあ」という非常にうさんくさいポーズでようやく購入したのだった。バレてたかな。
ケイン・コスギは、まあ数年前に少し好きだった人に雰囲気が似てたので。写真集っていうよりは、KENGLISHとかいう本仕立て。ブックオフで200円ぐらいで買ったかな。ケインのコスプレが満載。ただこれ見ててもあんまそれほど楽しくはない。ケインは「からだであそぼ」で子ども相手にまったく大人気なく勝負して、「イエエエエエ!!」と(デーブスペクターそっくりの)声を張り上げてる姿を見るのが一番楽しい。
玉山鉄二は、買ってちょっと失敗だったかな、釣られたな、と思った。だって、ネットで玉山の写真集検索したら、セミヌードの画像が出てきたんだ、そんで釣られちまったよ。だいぶコンセプチュアルな写真集で、期待するような写真はほとんどなかった。2800円もした。買わなきゃよかった。
で、これらの写真集のうちいくつかは売りたいんだけど、地元の新古本店には僕は常連客なのでこんなのを売り払いにいったらゲイだとばれてしまうじゃないかあああ。それに男性に限らず写真集って、買い取り価格けっこう安いしね。
■14:17 09/06/17
通信高校に通ってた頃、17歳か18歳ぐらいの時、地元に新しくできた新刊書店にいったら、エロ本コーナーにゲイ雑誌があった!
「ああ、欲しいなあ、でもレジの人に見られるよなあ、どうしよう、でも欲しい、欲しい……」
結局思いきって購入した。
レジの人は(今おもうと)大学生ぐらいの人だったろうか。男だった。レジのその男性はゲイ雑誌を見るなり僕の顔を見つめ、またゲイ雑誌に視点を戻す。ゲイ雑誌、僕の顔、ゲイ雑誌、僕の顔、ゲイ雑誌、僕の顔……男性の表情が険しかった。「うわ、こういうの買う奴ってまじでいるのかよ……こういう奴が買ってくのか……きめえ……」という感じだった。
でもその時のこと、よく覚えてないんだよなあ。緊張とか「とっとと会計済ませたい」という気持ちの方が強かったのかな。
今おもうとあんなに露骨に態度だす人も珍しいんじゃないかな、という気がする。
(あるいは、あの男性のあの態度は「おいおい、おまえ中学生か高校生ぐらいじゃないのか、これ買うのかよ」というつもりだったのかな。僕にもう二度とエロ本を買わせないために、という。だとすると職務遂行しただけなのかも。希望的観測すぎるか。やっぱあれは軽蔑だったんかな)
■14:24 09/06/17
ハア、ゲイネタだと書く事尽きないなあ。
同時に、書きながら昨日書いたような「ゲイ」だとか「同性愛」だとかの言葉に対する違和感が段々なくなってきた。
やっぱ言葉は実際に使ってみる事で”概念の結び目”として自分の中に獲得できていくのかな、なんて安直に考えてしまう。
■14:26 09/06/17
タイトルに「同性愛」なり「ゲイ」なりいれた方がいいのかな、と考えたりする。でもいまのこの「塵も積もればヒキコモリ」、この一言タイトルのすっきりさが好きなんだよなー。看板に無理矢理いれなくてもいいのかな。でもどこかでははっきりと表示しとかないとだめなのかな。
■14:35 2009/06/17
松井冬子の絵って、本人いわく「通常、私の絵を見て男性達は”勘弁してくれ”と感じることが多いです」だそうで。
僕が松井冬子を少しでも気に入ったのは、やっぱそういうことなのかなあ。自分としてはそういうつもりはなくても、やっぱりそういうものを嗅ぎ付けてたどり着く、っていう擬似的な本能みたいなのはあるのかもね。食指ってやつか。
■15:27 2009/06/17
僕のややこしいところは、ゲイでもなんでもいいけれど、特定の対象を生理的に嫌悪したり、「なんとしても受け入れられん、断固拒否!」「焼き払えー(^o^)ノ」みたいな人の心性も、なんとなくわかってしまう、というところがある。ああ、すいません、お目汚ししてしまいまして、ハイ、というか。それをふつうには「卑屈になっている」というのだろうか。
ただこの辺の僕の感覚は、やはり母からキリスト教信仰を与えられたことにも起因している気がする。
キリスト教の、他者への犠牲精神。その「犠牲精神」を楯にして「他者のためです」という構造の中にいれておけば、僕自身は深く考えなくてすんでしまう、というシステムが出来上がるじゃんか。
中学のとき、三者面談で「毅はどうも、『自分がここにいていみんなが行くのを見守ってるからいいよ、僕はここでこうしてるからいいよ、先に行ってね、僕は残り物でいいから』っていうようなところがありますね」と担任がいい、母も「そうなんです、どうもそういうところが」と言ったことがあった。
僕が僕のありようを自己肯定しきれないのは、あるいは確定できないのは、内面における”女性的な性性”(ああややこしい)が強いことからくる態度表出が他者からいろいろいじられてしまったことのトラウマと、キリスト教の犠牲精神を体にしみこませたのと、とか、そういうのがまぜこぜになって土台になってるんじゃないか、と思う。どれが先でどれが後なのかはわからないけれど。どれもこれも同時多発的のような気もする。
■15:32 2009/06/17
ゲイネタで尽きない訳だよ。だって、いままでこのブログに書いてきた700個以上の記事は、全部ゲイだってかくして、一部ウソをついて作り上げた記事だったんだもの。
これら700個以上の記事を、ゲイという変数を代入して書き換えるだけで、僕はこっから先、700個分のネタを持ってることになる。
まだまだ書くんだろうなあ。いつ尽きるかなあ。それってしんどさになってしまわないか。
■15:40 2009/06/17
事情を知らないからこそ、見えてないからこそ、ゲイやビアンや無性愛に拒絶反応を起こし、何が何でも断固拒否!という場合がある。
それなら、同様に事情を知らないからこそ、見えてないからこそ、ゲイやビアンや無性愛になんの抵抗もない、という人だってあるんだろう。
だとしたら、後者のような人を探して、その「見えないから平気でいられる」という部分に頼っていいのかな、という気がする。
事情を知らなくて見えなかったから拒絶反応が強かった人は、事情を知り見えるようになることで、なおのこと拒絶的になることの方が多分普通じゃないかな。逆もまたしかりかも。
「集団分極化」ってやつ?荻上チキたんの本でそんな言葉と概念を覚えた。「ウェブ炎上」はすぐれたいい本です。みんな買ってお読みなさい。
■15:52 2009/06/17
昨年、いくつかのひきこもり支援団体に送ったメールを以下に掲載する
◇
はじめまして。いくつかのひきこもり支援団体等に、個人的に以下同様の内容でメールをさせてもらっています。
埼玉に住んでおります。
質問があります。
そちらで支援しているひきこもりの人の中に、男性の同性愛者はいますか?言いかえるなら支援している中で、当事者から同性愛をカミングアウトされたことはありますか、ということです。
私は「社会的ひきこもり」で、なおかつ同性愛者の男性(以下ゲイ)です。本屋、図書館等は行けます。
幼少の頃から、自分が女性的な部分があることで、大変生きにくい場面にたびたび出くわしました。それは親、友達、テレビ、そういったものから「男性が男性を好きになる人は異常」ということを浴びせ続けられることでした。
少しでも男の子らしくないところを見せれば父親に「そんなことじゃ将来結婚できないぞ!!」といわれる。友達からはオカマオカマといじめられる。社会に出ても「あたし、ホモとかオカマとか、大嫌い!!」等とまったくもって無邪気に言う人たちに苦笑いするしかない。
こうなってくると、生きていく上で必要である自己肯定など、到底無理になってきます。
ゲイの場合、HIV問題などからもわかるように、大変即物的な肉体関係に陥る人たちが大変多いです。彼らのそうした軽はずみの行動は(個人的な推測なのですが)要するに幼少期から自己を肯定されることのなかったことから来る、依存症がほとんどではないのか、と考えています。もちろん、男性特有の性的欲求の強さというのもあろうかとは思いますが、少年少女らが親と分かり合えない事から非行に走ったりリストカットをしたり各種依存症になったりするプロセスに近いものがあるのではないか、と。考えています。
ゲイだということで人から否定され、性格がひきこもり的になっていく。
実際に状態像として「ひきこもり」になる。
ひきこもりゆえの問題(就労等)が浮上する。
ひきこもりを解決をしようとする先には、ゲイだということで否定される世界が待っている。
だからといってオープンにカミングアウトなどは出来ない。
一言で言うならば「ひきこもり支援の中に、同性愛者の葛藤の問題という想定&啓蒙が、もっとあってほしい」ということです。
なぜそう思うかと言うと、一つにはひきこもりのパイオニア、斎藤環ですら「ひきこもりにゲイは少ない」等の発言を書籍等でしているのを見てのことです。私は彼のその発言を受けて、「それは単にカミングアウトが出来ない人がいるからだろう」と感じました。
幾人か、ひきこもりでゲイの人とネット上のみにてやり取りをすることがありました。彼らの中には支援を受けたり病院やカウンセリングに行く人もあるのですが、総じて「そういうところでもカミングアウトはしていない」と言います。
ひきこもり問題を解決する中で、本人−家族−支援者が連携していくという形を取る以上、親にばれてしまうかもしれないリスクを考えることから、支援者にカミングアウトが出来ないのは、ごくまっとうな心理だと思うのです。
私自身のことに関して言えば、母が本当に時々ですが「お見合いしてみない?」とか、誰それが結婚したときけば「あ〜あ、うちは結婚無理なのかなあ〜」と私に聞こえるように言ったりします。それは、ひきこもりの問題にだけ限定して言えば、大変プレッシャーのかかる言葉であり、追い詰めるしかない言葉であります(もちろん母はそんなこと少しも配慮していないようです)。
しかしゲイであれば、そこには更に二重のプレッシャーがかかるのです。ゲイである以上、異性と結婚はできず、子供も生めず。
こういった板ばさみの中で、「ひきこもり」という状態になったゲイは、一体何から手をつければよいのだろう?私個人のことではなく、全体的に考えています。きっと、ひきこもり問題と自分がゲイだということの二つでままならない人たちは沢山いるのだろう、と。
脱ひきこもりを目指そうとする。そこには自分の気持ちが絡んでくる。だが自分の気持ちをネガティブにしていく要素は自分がゲイであることからきている。だとすればゲイということを自分の中で折り合いをつけねばならない。この折り合いをつけるには、ある程度他人からの自分に対する肯定を必要とする。しかしそれにはカミングアウトが伴う。
ひきこもりは、その多くが男性とききます。そして、社会に参加するということは、極端にいえば、誰であれ最終的には男社会に入るということだと思います。その中で男性としての社会責任を社会・世間から求められ、そこにつまずく男性(ex:優しい男性、静かな男性、オタクetc)は引きこもり等になり、女性の場合はセクハラやモラハラ・パワハラ、男女間の不平等etcの問題につながっていく。そう考えると、「ゲイでひきこもり」の人は、ある意味ではそういう構造の中で、「社会参加でつまずいてしまった人」、「ひきこもり」としては象徴的な存在なのでは、と思います。「ひきこもり」の問題がもっとも極まった状態、それが男性のひきこもりでもなく女性のひきこもりでもなく、ゲイのひきこもりである、と。ゲイのひきこもりが、男性性を求められる男社会に入っていく中でのつまずき具合が、もっとも大きい、と。
そのため「ゲイのひきこもり」に限定した調査や、体験談募集のような活動があればいいのにな、と思います。匿名に限定したとしても、実施は大変難しいとは思いますが……。
少しまとまらなくなりました。話を別の方向に変えます。
これらの問題を、ゲイの問題解決側から動き出そうとすると、そこに待っているのは「ゲイは正常なんだから堂々と生きよう」というような姿勢です。ある意味では、"カミングアウト上等"というような姿勢なのです。その象徴的なものが、ゲイパレードといったところでしょうか。ゲイであることなどを書いたプラカードを持ったり、あからさまに露出度の高い服を着たりして、街中を歩くセクシャルマイノリティ啓蒙活動の一種です。
しかし、ひきこもりがそういった方向で解決を進めていくには、少々無理を感じています。ほとんど180度の転換であります。「してみればいいんじゃない」という意見もあるにはあるのですが、そこにはひきこもりがそもそも抱える問題、イエ・家族&親・世間といったことが大きく絡みすぎてきます。「親や世間をきにせず、軽い気持ちでいこう」というひきこもり解決の姿勢が、ここではより強く断罪されがちな姿勢になってしまうのです。
ゲイのひきこもりにとって、一番典型的な解決の方法があるとしたらなんだろうか?それは、アルバイトや就労なりして、ゲイであることを隠し、ゲイとしての恋人や交友関係そのものは、社会からは隠れて作って交流していく……そういう形になるかと考えます。そう、ここでもゲイは社会においてひきこもる形を取らざるを得ないのです。社会復帰をしても以後続くひきこもり。
これを主張したとき、よく言われるのは「異性愛者が私は異性愛者ですとか、ロリコンとかSMとかそういう趣味の人たちはそんなことわざわざみんなに言わないだろ。それを隠して生きてるだろ。それとおんなじ。」ということがあるのですが、これはまったくもって的を射ておらず、ただいたずらに当事者達を傷つけるだけの言葉です。
ゲイのひきこもりは……幼少期からゲイであることに悩んだ(私を含む一部の)ゲイの人たちは、社会において自分がゲイであることを隠すのにもう疲れてしまった。ゆえに、ひきこもらざるを得なかった。社会復帰するならば、また自分を隠す生活に戻っていくだけ。どうしたらいいのだろうか???
また、ひきこもりの子を持つ多くの親の頭の中には、「同性愛で苦しんでいるのかもしれない」という想定は、果たしてあるんだろうか??
まとめます。それでも私が言いたい、聞きたいのは最初に書いた通りです。
ひきこもり支援の中に、同性愛およびマイノリティの問題は想定されてるのでしょうか?そちらの支援活動形式のみに限らず、全体的な動向等を教えていただけると幸いです。
……
個人的な感覚をかなり無茶に一般化し、書きました。自分勝手な、しかも長いにも関わらず煩雑で稚拙な文章になったことをお許しください。しかし出きれば返事・回答、および何か上記のことについて私に誤解があれば訂正の指摘ないし情報等をいただけると幸いです。
返事をいただける、それだけでも「このメールの内容、訴えが支援団体に読まれたのだ」という事実から、多少なりとも、希望が持てるのです。
読んでいただき、ありがとうございました。
追伸 私自身は、ないといえば嘘になりますが、就労に対する焦り等はあまりなく、出きれば今この時期は、自宅で読書にふけっていたいという気持ちでおります。ただこの気持ちと実際の読書行為も、多少アディクションの匂いはするのですが……。
■16:15 2009/06/17
以下の文章はいまから三年前、2006年の春頃にとあるところで発表した文章。検索してもヒットしないので、公開してもいいかなと思い、掲載する。
内容というかテーマは……「山川純一作品の流行に見るゲイ文化論」ってところかなあ?よくこんな文章書いたな、と思う。いまもうこんなの書けない。
◇
およそ百年前、アメリカの新聞に毎週日曜日に掲載される一つのマンガがあった。「夢の国のリトルニモ」という作品で、作者はウインザー・マッケイ。もしやディズニーよりも才能があったのではと言われたマッケイのこの作品、アニメの原点とも映画の原点とも言われている。そんな作品が、新聞の一つのマンガとして好まれ読まれ、そして時に読み捨てられていた。あらゆる芸術文化の宝は、こんなとても日常の一番近いところにあった訳だ。日本でもまとめられたものが出版されたが、現在はこのリトルニモ、描写の一部に差別を受けていた頃の黒人の姿をしたものがあるというだけで絶版になっている。最近復刻されたちびくろさんぼもこういった理由で絶版になっていたが、大変もったいないことだと思う。
さて、日本のゲイ雑誌に薔薇族というものがあった。ゲイを対象にした雑誌で、あらゆるゲイコンテンツが盛り込まれたもので、ゲイではない者にすら「さぶ」と共に知られる有名なゲイ雑誌である。そしてこの薔薇族に、一人のゲイマンガ家が、同じくリトルニモのように毎月読み捨てられるだけに終わる作品を発表していた。
山川純一。通称ヤマジュン。
いまやネット上において、特に2ちゃんねらーの間では「ウホッ!」「やらないか」という名言とともに大変ファンの多いゲイマンガ家である。テレビ実況スレッドなどでは少しでも男性の裸がテレビに映れば「ウホッ!」の嵐が巻き起こってしまう。そのぐらい、山川純一ことヤマジュンはネットで笑えるネタを日々探す者達にとって、一大ムーブメントとなりえた。
なぜそこまで、ヤマジュン作品は人々をひきつけたのだろうか?それはインパクト以外の何物でもない。ヤマジュン作品はそれを読む者にとって、とんでもない質量の爆発性をもったインパクトを与える。
公園の裏を通りかかる少年、その道すがらのベンチにつなぎを着た青年が座っている。少年が「ウホッ!いい男!」と思っているやいなや、つなぎのホックを外しはじめた青年はそのペニスをあらわにし、少年に唐突に一言「やらないか」と性交を交渉する。少年は青年のそのいきりたったペニスにくぎづけとなり、放心状態。そのままトイレへ……。
はてどんなマンガだろうと思ってふたを開いてみたらこんな展開だったなんて、インパクトを受けるなという方が無理な話だろう。それも「ゲイマンガ」というだけでも、ヤマジュンなど知らなかったノンケにとってしてみたらすでに新境地なのだから、そのインパクトは新たな世界というところもあいまって二倍三倍にも爆発力が増す。しかしならばどうしてそこまで面白いものが世の中に出てこなかったのだろう、という疑問が浮上する。
理由は簡単だ、結局ゲイ向けの雑誌に掲載されていたゲイ向けのマンガだったから、ということに過ぎない。これは超マイナー作品だから、という意味ではなく、作家と作品ともに、自ら日陰にいることを望んだ上で発表されたものだった訳だし、また読者もゲイという世間からしたら日陰者だった訳で、面白いと思っていても声をあげる場所も立場も理由もなかった(今もない)。もし、リアルタイムに「この日陰に光をあてましょう」と、無理矢理注目されていたら、ヤマジュンはきっと戸惑うだけになっただろう。光をあててもらったところで、それは結局ゲイの世界が晒されてしまうだけのことになってしまうのだ。多少被害妄想的に見えるかもしれないが、そういった感情が働くのはゲイにとっての長すぎる日陰者としての歴史からやや致し方ない事だし、この事について全てを説明し理解してもらうには若干時間がかかりすぎる。
ヤマジュンは多分薔薇族で作品を発表していたとき、ストーリーのインパクト性は勿論追求していったのだと思う。薔薇族は別にゲイマンガ雑誌ではないので、他にも色々なコンテンツがある。例えばゲイビデオ情報だとか、文通欄だとか、お店の情報、売り専だのなんだのの広告etc……。そうした中でのマンガというのは読者がみなゲイであったとしても、どちらかといえばどうしてもやや埋もれてしまうページになってしまう。オマケ程度の扱いなのかもしれない。そもそもマンガをマンガとして求めるのは(最悪やおいだってあるんだし)ゲイとて別にゲイマンガに限らなくてもいい訳だ。
そんな中でも、クリエイターである以上、難産の結果生み出した我が作品を楽しみに読んでもらいたい、我が子供を可愛がってもらいたいと思うのはしごく当然のことだろう。多分、ヤマジュンはそもそもマンガ家としての才能があったのだと思う。ゲイ要素やエロ要素を抜かしてマンガを何か描かせてみても、充分一般大衆に受けうるものは出来あがったのではないだろうか。ヤマジュン作品群をそういった視点から見つめてみても、どこか70〜80年代の少女マンガにありがちな記号的表現や展開などがある。別にパクリをやっているという事ではなく、そういう技術をきちんと吸収し作品に反映しているという事だ。マンガとしてのクオリティを追求しているように見える。
だからこそ、ゲイではない一般大衆(でもないか)、2ちゃんねらーなどにあそこまで受け入れられ好まれたのだ。マンガとしての面白さ・インパクト性の才能が充分に発揮されてる上で、「ゲイマンガ」という今までになかった衝撃。ここがノンケ読者に対してのやまじゅんワールドの強みであった。
しかし、ヤマジュン当人はこの今の人気っぷりをよく思っているかどうかは……わからないし、同じゲイとして考えた時、かなり複雑な気分ではないかと思う。人気が出たターゲット層は結局無意識でもノンケ目線がゆえに珍奇なところが面白いマンガとして見てしまうノンケがほとんどな訳だし、例えばそういった人達から作者の素性を知りたいといわれても、困るところだろう。山川純一は山川純一として薔薇族というごく限られた場所にいた訳で、全てに対してカミングアウトをした上で商業誌でやっていた訳ではない。どんなに「同性愛差別などしないから」、と言われたとしても、自分が見て欲しかった角度とは違う角度で楽しんでしまっている人達の前に出る事というのは少し勇気のいる事だ。
日陰だったからこそ、強く育ち、また薫り高く咲き誇る花だったのだ、やまじゅん作品は。そこに無理矢理光をあててしまっても、しおれてしまう。作品というのは、作り手が作品の完成を確信し、発表した時から、今度は読み手のものへと変わってしまう、またそうあるべきなのは確かだ。だがそれぞれの読み手のそれぞれの解釈を作り手にそのまま返そうとするのは、作り手への読者のやや勝手な願いと期待でもあるし、そう言った事が昨今のマンガ作品の衰退に繋がっているのは事実だ。
やまじゅん作品を集めたHPも閉鎖されてしまった今だが、あの作品群のインパクトは我々の心に残り、またいくら消そうとしても決して消すことのできないものとして植わり続けるだろう。そのやまじゅんの蒔いた種がまたみなそれぞれの心のどこかの日陰で咲いていれば、それだけでいいのだ。
……最後に、全作品に目を通してはいないのだけど個人的に最も好きな作品は、確か「男狩り」という作品。一人のサラリーマンが夜な夜な通り魔となってそのデカマラで人々を犯し殺して行く。ある夜刑事に捕まってしまうがその刑事はその通り魔の弟であった。兄は弟に掘ることを要望し、弟は兄のアナルにソレを入れる……。が、次の瞬間爆音とともに兄は死んでしまった。弟が突っ込んだのは警察の拳銃で、それの引き鉄を引いたのだった。そこで終わり。……こんな「ストーン」と見事に落とすオチは滅多に見た事が無い。悲哀感が漂うとともに、実に爽快感のあるラストである。ページの制限もあったのだろうが、私はヤマジュンは最高のオチができたと確信し、このラストでしめたと信じている。
■17:36 2009/06/17
僕としては、自分の中にある何かしら対象への生理的嫌悪感は、尊重してほしいな、と思う。生理的に受け付けない、それは理由もなく無理、というものがある。そこは理解してもらわないと、やっていけない、というのがある。まあここで父と思い切りぶつかり、父はそれがまったく理解できない、というのをこのブログで常々つづってきた訳だけど。
そういう風に、僕の中に強烈に守りたい領域があるがゆえに、「ホモは無理!話題に出すのも無理!」という人があるとなると、その対象に自分が晒されることになるとわかっていても、どうしても「それはそれで尊重しないと、その人の生命に危険が及ぶ」という気がしてしまうのだ。
生物学的にどうとか、倫理的にどうとか、少子化がどうとか、そういう話を持ってくる人は、まだ話のできる地平が残っている。彼らの最後に行き着くのが「やっぱりホモはNGでしょう」というところだったとしても。
ただ、話を尽くした結果、最後に残るのがどうしても背中に悪寒の走るような生理的嫌悪なのだとしたら、そこはフォローしなくちゃいけないように思う。
ここの感覚は、たとえば神経が敏感な子にいきなり抱きつくとパニックに陥ってしまうことへの対応・フォローのような感覚。そういう子には、あらかじめ「触るよ、触るよ、大丈夫かな、いいかな」という確認が必要になる。
なんて、こんな発想はちょっと”犠牲的”だったりすぎるんだろうか。でもなあ。
■18:20 09/06/17
その子とはネット上のみでの付き合いだったけど、一応顔も知ってたとあるメンヘラ男子が、今年3月に急死していたことを知った。今日知ったんだけど、どうやら身体的にはだいぶボロボロ状態だったみたいで、健康診断かなにかでそれが発覚してからわずか数日で死んでしまったらしい。
生前、そのメンヘラ男子は無細工を自称していたし、リストカットなんかもやっていたらしい。むっちむちのパンパンな感じで太り気味でもあった。
そいつは無細工を自称して、でも顔写真も思いきり出してたりして、なんかパッと見としてはそれを売りに出来てるようにも思った。他に捨てるものがなかったから顔も晒しちゃう、っていうのもあるのかもしれないけど。
で、僕のゲイとしての価値観・感覚から見た印象だと「ゲイの世界ならあんた確実にモテモテなんだけどね」という感じだった。実際そいつにそう言ってみたりもした。
そうするとそいつは「ゲイ(笑)。ゲイに好かれても困る(笑)。自分はそんな気ないのでごめんなさい(笑)。」という感じで返してきたので、「おい!!別に俺がおめーを好きって訳じゃないし!!」という風に言い返したりなんかもした。僕がそいつに対して単に「ゲイだったらねえ」という想定で言ったことを、「小笠原に求愛されてる」と解釈したことに、僕は反発したのだった。で、そんな風に反発をしてみても「いやいや(笑)。無理なものは無理(笑)。ごめん、僕のことは諦めて(笑)。」という感じに。どんどん僕が”性欲野獣”へと追い込まれていく。奴の作戦にしっかりはまってしまった。「ムキー!!きーきー!!」となった。そんな思い出がある。ちなみにそんなやり取りを一番最初にした時は、彼がリストカットしたりするような重症のメンヘラだとは知らなかった。
その後、彼とやり取りしてるうちにリストカットもするし毎日気分が不安定にもなるしというメンヘラだとわかって、ふと、以前やり取りしたように、「ゲイ(笑)」と反応されることで、「ゲイだということで見下してもらうことで、僕を笑ってもらう」というありようも、いいんじゃないか、奴を元気づけるんじゃないか、と思った。「ゲイが来たぞーイッヒッヒ。食べちゃうぞー」と近づいて「やめてやめて、こわいこわい、そんな趣味ありません(笑)」と反応させる。そんな役目もありかな、と思った。ピエロの役目?そういうのなら、偏見的イメージでの「ゲイ」という役割分担も請け負っていいかな、という気持ち?
そんで、久々にその子のことをふと思い出して、その役目をやってみようかなーと思って彼のとあるサイトを開いたら、すでに3ヶ月前には死んでいたことを知った。ちなみに享年は24歳、かな?
それからしばらくそのことについて考えていて、でもそこまで深く考えられはしなかったのだけど。どんなことを考えたか。うまく書けそうにないのでただ羅列。
・死んだと知っても、意外と目の前の事実を受け入れてるような気がする。驚いたような感じはあるように思うけど、そこまでショックという感じはしない。ネットだけでの付き合いだけだったからだろうか?
・いつ誰が死ぬかは、本当にわからない。突然死していたことがネットによってこういう風に見える形になっただけとも言える。
・僕は死んだ人を弔う方法を本当に知らないんだなあ。キリスト教を与えられてきたことで、仏教的な葬式の感性もほとんどないし、キリスト教も決別してしまった。僕の中での死生観の位置はどこだろうか?あくまでサブカルチャー的なオカルト要素での趣味でしか死生観を育てられないのだろうか?
・今は実感が沸かなくても、数ヶ月後に急激に泣けたりするのかもしれないなあ。そういうことって、あるらしいから。
・「24で死んじゃう人もいるんだから、小笠原さんはその分しっかり生きないと」とか言われちゃうのかなあ。なんかそれはそれで「何か理屈が違ってる気がするんだけど」って言いたくなる。
・やっぱもうちょっとゲイネタで笑わせてやりゃあよかったかなあ……。
・健康診断で重病体であることが発覚してから数日で急死かあ。それまでにメンタル面でも苦しんでたことがかけあわさって心労になって急死を引き起こした、っていうこともあるのかなあ。どうなんだろう、健康診断で数値がわかりさえしなければ、死ななかったってこともあるんだろうか。どちらにしても急死は避けられなかったのだろうか。
■19:45 09/06/17
おととい、6月15日から、永井均の「これがニーチェだ」を読み始めている。おととい、昨日、今日、と読んでいて、今さっきも読んでいた最中。(というか読んでる最中に、思いついてこれを書き始めたのだけど)
でも最初から通読しはじめて30ページ目ぐらいにさしかかったあたりから、ちょっと言ってる事がわかんなくなってきた。
で、ルーズリーフを取りだし、「読書抜書きノート」みたいのをそのページからはじめてみた。重要箇所っぽいところを抜書きしながらなら、アタマに入るだろーと思って。でも、そうやってみたもののちょっと理解が深まりそうにない。なので、もう一度一番最初のページからまた読むことにした。
そんで、ついでに、抜書きもルーズリーフじゃなく、ノートを一冊新しいの出して、やってみようと決めた。ルール:綺麗に書こうとしない。ルールはただそれだけ。とりあえず適当に抜書きしていって、何か新しく書き方を思いついたらまたルールを追加していけばいい。スキマスイッチの常田真太郎は読書ノートつけてたのが歌詞のアイディアに繋がったらしいぜ。このノートがいつか役に立つのかなー。
と、最初のページから読みはじめて……「ン!?」と思う。「あれ、もしかして……」と思う。
そこに書かれてることは、昨日散歩の道中どんどん気分が沈んできて、「カミングアウトしてしまおう」と思い、それからブログに色々と綴り始めたことの心性と、かなり似通っていた。というか、考え方の道理としては、ほぼ同じかもしんない。この本の序文には「『ツァラトゥストラはこう語った』の『三段の変化』から有名な箇所を引用」してあるのだけど、いまさっきそれを読んで「これは……」と思った。
まあニーチェなんかと僕を同列にするなんておこがましいにも程があるんだけど(と謙遜しておくのだ)、アレー、やっぱ一番最近読んだこの本に、引きずられてカミングアウト決断に至った部分も、結構大きいのかなー、と思った。
実は、最近読み込んでいた上山和樹の「ひきこもりだった僕から」がかなり影響したのかもしれない、と思っていた部分があった。散歩からひき返す道中、妙な気分と心地で「言っちゃえば僕も上山和樹みたいになれるかもしんない、第二の上山になろう、そうだ、そうしよう……」と思っていたのも事実だった。
でも、ここに掛け合わせの変数として、この「これがニーチェだ」の序文が代入されてたんかもしんない。
カミングアウトまでの導火線が上山和樹。導火線に放つための火が「これがニーチェだ」序文。そうしてその火を使っての着火行為が、あの散歩。
カミングアウトをするに至った心性を分割するなら、こんな仕組みだった、とも言えるのかもしれない。
……ホントかね。でも本の影響って、時々すごいものがあるって、言うからね。僕も山田花子の自殺直前日記に引きずられた人生送ってるといったら、やっぱそうだろうしね。
■23:26 09/06/17
「ゲイやビアンやバイを受け入れます」という表現でひとまず”味方です宣言”をしてくださるのは、やはり女性がやや多いかな、という印象がある。
男性が少ない印象なのは、安直に考える事もできなくはないが(すなわち「男同士なんてオエーッ」とう人が多い、のように)、実際には「”受け入れたい”と、”味方です”と、宣言したいんだけど……」という人が多いからなんじゃないか、と想像する。
昨日かな、書いたように「ブロークバックマウンテンが好きな映画です」とは言いづらいだろう、というのと同じ。
会話例。
A「俺、ホモとかまじ無理」
B「俺は別に平気だけど、別にいいんじゃないのか」
A「え。まさかおまえコッチか?!」
B「違うよ!!」
A「じゃあなんで平気なんだよ」
B「別に個人の自由なんじゃないか」
A「いや、やっぱおまえソノ気があんだよ、普通の男だったら理解できるはずねーし」
B「なんでそーなるんだよ(ゲイに理解あるって言わねー方がいいのかな・・・もう今後は言わないことにしよう)」
まあ極端なケースかもしれないけど、大体このような枠組みがあるんだと思う。「ホモに理解できるような奴=ホモかあるいはソノ気がある」と考える人によって、”味方宣言”をする人にまである種の差別が及んでしまう、という枠組。
いじめっこをかばったらいじめられるとか、そういうの。
あとは、例えば僕は「君が代」が音楽的に好きなんだけど、「僕は”君が代”が好きだ」とはちょっとおおっぴらには言えない空気を感じてるとか、そういうの。
ただ自分の感覚を言っただけで「右か左か」「コッチかソッチか」に割り振られてしまう、そういう枠組がある。でも、そういう枠組を作ってるのは、案外どうも小人数らしい。
基本、ほとんどの人は中立派なんだと思う。やっぱ日本人の多くは、平和主義だろうし。でも”権力”を持ってる人が「さあ右か左かコッチかソッチか、言え!」と迫ってくる部分がある。そんでこれもやっぱ日本人の多くは、長い物には巻かれろ主義でもあるだろうし、そうすると元もとの平和主義がたたって(?)、本来の自分の感覚を無視してことを荒立てない選択を選び取る。これが、マジョリティと見えるような構造。かな?
だから、僕は”ゲイ差別”なるものをなくそうとするのなら、”拒絶する人”や”差別する人”をどうこうするよりも、「本当は私はゲイとかそういうの、別になんとも思ってないんだけど、特に考えを持ってないんですけど」という人を表面化していくことなんじゃないか、と思う。
「意外にみんな、ゲイやセクマイについて、心の底ではなんにも思っていなかった。理解でも偏見でもなく、興味があるないとかでもなく、なんにも考えてなかった。そういう人、結構多い。」
そういうのが表面化することが、早道なんじゃないかしらん。
とかいうことを、これまでに何度かこのブログでも、別にセクマイ関連だけに絞らずに(若干乱暴に)全体化して書いてきたつもりなのだけどぉー。
ミもフタもなく言ってしまうなら、やっぱ「人は人のことをそんなに気にしてない」というまとめ方になるのかもしれない。ただ、一部には「やたら見ていて突っ込んでくる奴がいる」。「みんなそういう奴の命令に巻き込まれてしまっているだけ。叩く方も、叩かれる方も」。案外そんなものなのかもしれない、と。そゆこと。なのかな。