<共感至上主義社会>
<ハートフルな企業CM>
<共感の反対は反感ではなく>
<「これに共感できないの!?」>
<共感を求める人達が最も反感を抱く>
<共感主義から抜け出して無感覚>
<「これに反感できないの!?」>
<死刑を大喜びした母>
<共感至上主義に共感せず参加する人>
<いつのまにかなじんでいってしまう>
<自分の生きたいように生きればいい?>
<共感主義のはじまりは家族・親>
ひきこもりは、共感至上主義に石打ちの刑に合わされてしまった人たちである。
社会は共感こそが最善の聖なるものであるという風潮なのだ。
それは「空気を読め」という言葉で代表されている。
企業等のCMがやたらと家族のドラマや仲間や癒し系などをテーマに打ち出してくるのも共感至上主義に乗っかることが現在は最も受け入れられることだと無意識か意識的にか、わかっているからだろう。
ところで共感の反対は反感ではない。
「いまいちピンと来ない」「よくわからない」等が共感の反対である。頭では理解できるけど納得は出来ない、琴線には引っかからない、などである。
しかしこれが世間では認められない。
「これがピンと来ないなんて!!アナタ感性おかしいんじゃない?ひねくれてる?ちゃんとしつけられた?人格曲がってる?童貞?マザコン?犯罪者予備軍?」
すぐさま叩かれてしまう。
そう、共感を求める人たちが、共感できない人たちに抱くのが、”反感”なのだ。
大勢多勢なる共感至上主義、共感真理教からの迫害に嫌気がさしたとき、人は一人になりたくなる。そうして一人にならされてしまった人は、自分が何に共感……何にどう感じることができた人間だったのかすらわからなくなってしまう。自分以外にはこれに対してこんな感じ方をする人は存在しないのではないか。そう思い込んでしまう。
違うパターンもある。
「これには普通反感を抱くよね!……え?これに反感持てないの?これに反感を持てないなんて!!アナタ感性おかしいんじゃない?ひねくれてる?ちゃんとしつけられた?人格曲がってる?童貞?マザコン?犯罪者予備軍?」
反感という名の共感を求めてくる人達である。
(これはやや極端な例ではあるが、僕の母を例にあげよう。麻原彰晃/松本智津夫に死刑判決が出た時、クリスチャンの母は若干躁状態でもあったが、やや演技がかりつつもバンザイをして喜んだ。「早く今日にでも殺せ!ねえ、お父さん、バンザーイ!麻原が死刑だって!!早く死ねばいいのに!ね!?」と父に共感を求めた。その時父がどんな表情をしていたのかは僕は見ていない。麻原は死刑だ、という考え方や気持ちがNGだというのではない。それこそが誰でも100%感じていることでありそれがズレてる人などいないと信じて他者に共感を求めようとする態度がNGだということ。)
嫌気がさしても一人にならない・なれない人は、ムリヤリ大勢多勢共感至上主義真理教に合わせていく。そして人はそれがほとんどであろう。ひきこもりもそれ以前はそうだったのだ。それに挫折し、ひきこもる。
だが挫折せず、合わせ続けていける人がいる。これもまた、人はこれがほとんどであろう。
「ええ、私もそう感じます、共感します」
いつしかそれは彼(女)自身も気づかないうちに自らその作られた共感で身と頭を包み込んでしまう。ある意味では「形から入り、いづれモノにする」というのはこういう事を言うのだろう。ある意味では共感を捨てた人だ。共感を捨てた人こそが、ステレオタイプの大勢多勢共感至上主義真理教信者になるのかもしれない。
「人間、生きたいように生きればいい。自分の感受性で、人が何を言ってもおかまいなしだよ。自然が一番」
そういう生き方に憧れながらも、それができずに<世間>を気にしてしまうのは、大勢多勢共感至上主義真理教の洗脳が解けていないのである。
人生のもっとも始まりに与えられる大勢多勢共感至上主義真理教は、家族ならびに親からの<思い込まされ>である。そこに宗教が付加されていれば、最悪のスタートなのだ。
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読んでよかったです。私も同じことを考えていました。だから、この日記に共感します。
私は現在無職ですが、ひきこもりではありません。無職ですが、人と話すのが好きなので、とりあえず外出してその日出くわす見知らぬ人と会話をします。そして時々、そういう見知らぬ人と、この日記で書かれてあるようなことについて話すことがあります。みなさん共感しているようです。