次第に犯人の母親の供述が明らかになってきたようで、小一の息子が「どうして母さんのトイレ介助をしなければならないの、母さんなんかいらない」と言い放ったことが契機だった、ということらしい。
殺害後、自作自演などを働いたことからこの供述も所詮死人に口なしなのではないかとも思うが、あえてここではそれが本当だと仮定して思ったことを書いてみる。
ここにきてネット上で見られる世論(というほど情報得てないけど)は「人として言っていいこと悪いことがある」ということや「母親に向かってそんな事を言うなんて」という母親への同情の論調が出つつあるようだ。
しかし僕としては10ヶ月と少しの間とそれから出産の痛みを盾に、子供の全ての権利を母親に奪われる事は大変な暴力であるとしか思えない。もちろん想像に絶する筆舌に尽くし難い苦しみなのではあろうが、その痛み苦しみをもってして
「母親の出産の苦しみに比べたら子供の傷ついた心なんて甘い」
「母親の出産の苦しみに比べたらうつ病だなんて甘い」
「母親の出産の苦しみに比べたら引きこもりだなんて甘い」
「母親の出産の苦しみに比べたらマイノリティだからだなんて甘い」
「母親の出産の苦しみに比べたら不器量だから辛いだなんて甘い」
などと全ての痛み苦しみを軽いものとする態度は明らかな暴力である。この「母親の出産の苦しみ」を「戦争の悲痛」などと置き換えてもよかろう。
確かにそれらは非常に苦痛を伴うことであり、苦痛の中でも異常な体験ではあるだろう。だがそれらによって「痛み苦しみ」のランキングのトップをずっと奪われていては、他のことで苦しんでいる者達はなにも言えなくなりなにも反論できなくなり、困るのである。これは「自殺するぞ!自殺するからな!」とおどすタイプのメンヘラとて同じことである。
ところでこの犯人の母親と子供のやり取りを、もう少し想像で膨らましてみよう。子供が小一であるから少し展開に無理はあるかもしれないが。
母「トイレの手伝いしてほしい」
子「どうして。そんなことやりたくない」
母「おねがい」
子「やだ。そんな母さんいらない」
母「お母さんに向かってなんてこというの!」
子「だって本当だもん!」
母「誰があんたを生んだと思ってるの!あんたがここにいるのは誰のおかげだと思ってるの!」
子「誰も生んでくれなんてお願いしてないもん!」
母「いいから手伝いなさい!あとで承知しないよ!」
そして子供は母の用足しの手伝いをしぶしぶするが、その不て腐れ気味に母はまた一喝。子供にとっては納得いかない理不尽なままであろう。
この場合、母が取るべき態度は「母親に向かってウンタラ」ということではないのではないか。
母が言うべきだったことは、「そうね、イヤなのはわかる。トイレで誰かのうんちやおしっこを助けるなんて臭いし汚いしイヤだし恥ずかしいものね。でも困った人には親切と手助けをするものなのよ。あなたのためにも、お母さんを実験台に今のうちからそのことの練習をしてほしいの。」というようなことではないだろうか。そう、「困った人を助ける」という概念でまとめる方がよいのだと思う。母と子の問題に閉じ込めるのではなく。
(ここでは僕はとりあえず発達傷害/ADHDの子に対する配慮要素は考えていないが、ADHDに関する本を読んだ時、そこに書かれているのは”十分な愛情のある、子供にとってわかりやすいしつけ・教え方の方法”でしか過ぎないように思ったため、上記のような助言でよいのではないだろうかと考えている。書籍にあることと現場では天と地の差があることも多いとわかっていつつ。)
ちなみに僕としての親切とは、「しないことが親切になる場合もある」ということも含んでである。これは最近までマイノリティな考え方だと思っていた。というのも、「なんでも自分がしてもらいたいことを他人にもするべき」というキリスト教の考えのようなものが、普通世間一般では浸透していて、そのために僕は世間では生きづらい……と思っていたからだ。だがここにきてそれはどうやら勘違いであり、それらは若干子供めいた理論らしいということを感じてきた。割合「見ないふり知らないふりは親切である」と考えてる人が多いことに少し気付いてきた。というより都会であれば、それはかなり普通のことらしい。知らなかった。だがほとんどの場合、その気付かなかったふりという親切は、いつしか本来の意味を越えてただひたすら無関心になっていくもののようではあるが。その結果マイノリティであろうがマジョリティであろうがノイジイな人たちにも無関心になり、気付けば「自分がしてもらいたいことを他人にもすべき!」というところからくる変な思想とか団体が自分の領域にまで入ってきてしまう、という本末転倒のようなことになりがちのようである。
閑話休題。しかしこの事件、家族の内輪問題が(誤報や虚偽かもしれなくても)明るみになったことで、「母親が可哀想」という見方がちらほら本音として出てきたようで、どうも人は家族の内輪に悲劇がある事件には同情と憐れみを覚えることが多いらしい。一杯のかけ蕎麦や戦争で家族が散り散りになる話がいつまでも愛されるのも、そういった心理だろうか。
これはひとえに家族の内輪の問題をみんな家庭の中だけに良くも悪くも閉じ込めておくという国民性が共感を呼ぶのかな、と思った。その国民性は「非・下町性」とでも呼べばいいだろうか。アル中の父親を家族の中だけで閉じ込めて隠して世間には平静を装っておく。引きこもりの息子のことは家族の中だけで閉じ込めて本人だけ責める。いつまでも未婚の娘の活動的な部分を世間体を考えていやがる。明かにおかしい家族のメンバーを精神科に行かせたがらない。DVに耐える。etc……。
事件において家族の内輪問題が明るみになることで、皆誰しもその事件に冷静さを保てなくなるのであるが、多くの人が冷静さを保てなくなるそれらの事象というのは、突き付けられたその時、誰にとってもそれだけリアルだからなのだろう。