塵も積もればヒキコモリ@ひきこもりブログ

フランス映画「アメリ」の感想

久しぶりに映画「アメリ」を見た。2002年にDVDが発売した時に紙ケースの方を買ったもの。

買った当時は、ちょうとフランスの音楽にまみれてた時期で、フレンチポップなどのCDを買うだけ買って聴かないということが続いていた。一度に数万円分CDを買ったときもあった。今思うと、当時のアルバイトのストレスを買い物依存症で発散していたのだと思う。あの買い物癖、やめることができて本当によかったと感じている。その頃のCDは今でも聴き切れておらず、スチール本棚ひとつ分持ってるけど、いったいいつ聴き終わるやら。

アメリは最初、ファンタジックな映像を期待して買ったものだった。チェコのシュールレアリスムの映画監督でヤン・シュヴァンクマイエルという人がいるのだけど、フランスかぶれ(?)ついでに、この人の作品のようなものを求めた結果でもあった。ヤン・シュヴァンクマイエルはクレイアニメ(粘土アニメ)やコマ撮りや人形劇などを駆使して映画を作る人で、その世界観はほとんど「夜、眠っている時に見ている不条理な悪夢」に近い。アメリも不思議な映像が多いということ、それからフランスの映画っていうこと、それで買った映画だった。

だから買った当初、見た感想としては「シュヴァンクマイエルに比べるとなぁ」というのが本音だった。思ったほど面白い映像ではなかった。最初の、小さいアメリが怪獣に聴診器を宛てるところや、空に浮かぶ雲が動物に見えているシーンなどが気に入ったが、そんな映像がもっと満載だったらよかったのに、と思った。だから映画の内容自体はよくわからなかったし、あまり気にもとめていなかった。ただ、なんとなくおしゃれでかわいい感じの映画としか受け止めていなかった。

しかし今日、久々に見てびっくりした。こんなにも意味が違って見えてくることがあるのかと。気づいたら感情が胸にあふれ、涙がこぼれた。

このアメリに出てくる人達はみんな見事に神経症っぽかったり精神病っぽかったり、知的障害者、身体障害者、先天性の難病患者、あるいは自閉症、発達障害、アスペルガー症候群、ADHD……そんな感じの人達ばかり。それらの人間たちの間で起こる物語だった。

登場人物たちの気持ちが「わかる」ということかどうかはわからないけれど(パラドックスっぽいな)、それに近い体験を、人生で初めて映画の人物に対して抱いた。よく先人たちが「若い奴にゃわかるめぇ」と自分の好きなものを祀り上げるのだけど、多分こういう感覚なのかな、と思った。「成長ってこういうことなんかなあ」と思った。

だが同時に、あの頃の、ただ感受性に任せて自分の好きなものを混沌とした中から選び出して戸惑っている自分も、決して否定できないと思った。これを否定すると、きっと「毒になる親」のようになってしまうのだ、と思った。

「僕はこの映画をどうしても深く見過ぎてしまう、でも君(過去の僕)は、そうやって感じていこの映画を選んだんだから、それでいいんだ。そこが変わらなくたってちっともいいんだ。」と、自分の中の、過去の自分に対して言えたような気がする。

僕がこれを書いているのはアメリを見た直後であり、妙に興奮しているせいもあってか、あらすじをうまく語れないので筋だった感想は書けないけど、とにかく前半はずっと、次から次に出てくる登場人物に感情移入してしまい、またその人物の過去やトラウマを推測してしまい、その悲しさが胸にあふれ、ただ目がうるむ。これを書いていてもジワッときた。なんなのだろう、人間ってやつは、心ってのは。それがわからなくてもがいて、それでも今日も生きていくのだ。活動的だったり、閉じこもり気味だったりしながら。ただ生きていくのだ。

あー涙が出てきた。貧乏ゆすりも止まらない。

最後にひとつだけ。見た人にしかわからないけど、アメリが世界とつながるために、カメラで雲を撮影したことに言いがかりをつけられたことに対するあの最初の復讐体験は、必要だったのだと思う。あの復讐体験があればこそ、彼女はそれでも人並みに生活が出来たのだと思う。あれがなければ、本当に「世界の出来事は自分のせい」と思い込んでトラウマになったんだろうと思う。


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母のお願いは「断られること」を想定していない

昨日インターネットをやっていたら、夕方頃母がこう言ってきた。

「ねえ、なんかご飯作ってくれない?」

僕は即答で「やだ」と答えた。すると母はこう言う

母「なんでいやなの」
僕「気分が乗らない。わかんない、後もう少ししたら作るかもしれないし、作らないかもしれない。」
母「なんでいやなの」

こうなってくるとイライラしてくる。母は最初から僕に作ってもらうつもりでお願いしにきたのであり、こちらの事情を全く無視している。

それからパソコンをやめ、何か飲もうと思って冷蔵庫を開けた。冷蔵庫を見てふと思った。ここ二週間ぐらいで一気に冷蔵庫の中に、200mlの紙パックの投入飲料やパインジュース、あとドリンクゼリーのようなものがあふれかえっている。多分母が安いからという理由で大量に買ってきたのだと思う。その量にずっと手をこまねいていたので、僕は母に言った。

僕「こんなにいっぱい飲み物いれないで!冷蔵庫が使いづらい!ちょっと移動するよ」
母「移動って……どこに?」
僕「廊下に三ツ矢サイダーの空きダンボールがあるでしょ、あの中にいれとくから」
母「せっかく冷やしといてあるのに」
僕「こんな20個も30個も入ってたってしょうがないでしょ!4個ぐらい常に入ってればいいでしょうが。冷蔵庫が使いづらいの。すきまがないと物を取り出したり入れづらくなったりして、結局冷蔵庫の扉を開けてる時間が長くなって電気代もかかるし冷蔵庫の中もぬるくなるでしょう。」

そうして僕はそれらの飲み物を冷蔵庫から取り出し、こういった。

僕「とにかくシンク下の鍋置き場でもそうだけど、冷蔵庫でも中が機能的に動きやすくないと、料理とかする気にならないの」

そういって僕は二階の自室にいき、読書を始めた。するとしばらくして母が二階にあがってきて、ドアをノックし、扉をあけてこういった

母「シンクの洗い物も片付けたから、料理作って〜」

僕はイライラが募る。さきほど僕は料理を作る気はない、と告げた。それから料理を作るには色々機能的に整備されていないと無理、と告げた。この二つのことは僕にとっては全然別のことであるが、母の中では「じゃあ片付ければ料理してくれるんだ」ということでイコールになってしまったらしい。

母は……というより、母の母、つまり僕にとっての祖母がそういう人だったのだが、他人のスケジュールやその人の時間・気分というのを全くもって無視する傾向がある。母の友達には自宅で仕事をしている人もいるのだが、仕事中でも何べんも電話をかけてしまうことがあり、相手が大声で煩わしそうに「なんだようるせーな!!」という声が電話口から漏れるようなこともある。ちなみにその時母は電話を切った後、「うるせーなだって、面白いんね」と僕に言った。急がしい時に電話をしてしまった、ということが頭に入っていない。そういえば、僕がアルバイトをしていたときも、一時期毎日電話をかけてきてその日僕が帰った後に食べられるものを知らせるということがあった。祖母もそうだったが、母は退屈に耐性がないのだ。一人の時間というものをあまり持てないようだ。

さて、母が再度僕に頼みにきたものの僕はそもそも気分が乗っていない、読書をそのまま続けるつもりだったので、断った。すると母は下に降りていった。ああ、ようやく本が読める、と思ったがイライラ感が邪魔して本の内容が頭に入らない。

すると母がまた二階にあがってきて僕の部屋のドアをノックする。さすがにイライラもピークに達し母がドアを開けた瞬間「なにっ!?!?!」と大声をあげてにらんだ。

母「ぶり作ったから、鍋に入ってるから」

それだけ言って階段を下りていったが、途中で「どうして怒るんだろう〜」と声をあげていた。やはりこちらの事情、気持ちというものが全くわかっていない。

僕はこのせいでイライラがとまらなくなり、結局読書は中断し、何か料理を作ることにした。どうにかしてこのイライラを発散させなければならないと思った。そのために「おかあに頼まれて作るのではない、自分で作りたいから作る」という風に自分で自分に言い聞かせた。作ることについての背景を明確にした。

母は少し出かけていたらしく、しばらくして玄関のドアの音がして帰ってきた。なので僕は言った。

僕「いいか、今度からお願いするときは、事前に”断られたらどうするかの選択肢”を考えておいて。あんたどうせ面倒くさかったから料理作りたくなくてお願いしにきたんでしょ?」
母「面倒じゃないの、調子が出ないの」(僕は同じことだと思うが……)
僕「そうでしょ、だから、さっきこっちが断ったのも、同じなの。面倒なの、調子が出ないの、今はやりたくないっていうときなの。それなのに”なんでいやなの”はおかしいでしょ。」

ここで母が言った訳ではないが、こういうときに母がわりと言いやすい言葉はこうである。

「いつも作ってくれるじゃない」

しかし、かなりの率で僕は断ることもある。イヤだ、気分が乗らない、ということも結構ある。しかし母は僕が作ってくれるときの場面だけを、点でつないで印象として頭に残しているらしい。

僕はこの反対の人間である。どうも自分にとってよくなかったときの印象だけを、点でつないで印象として頭に残してしまう。そのため、以前「楽しいこと、面白いことだけを書き留める」という日記のようなものをやってみたが、どうも自分らしくない居心地の悪さを感じ、やめてしまった。

最近はやっている、何にでも「ありがとう」と言うとか、引き寄せの法則的なことを試してみた時期もあったが(一年ぐらい!)、それでも自分には合わなかった。

まとまらない、ここまで。


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「アルバイト3年半出来たのは強い証拠ですよ」?

僕は過去にアルバイトを3年半やったことがある。本当は1ヵ月目ぐらいでやめたくなり、その後店長が変わってからは毎日やめたい、やめたい、と思っていたものの、(空気を読み間違えたかもしれないが)やめられそうな空気でもなかった。結果、僕は今その反動でひきこもってるような感じもある。

だが、このやめたくてもやめられずに3年半、というのを、強いと言う人もたまにいた。父に連れられて行ったカウンセラーのような牧師と話をしたとき、まず言われた。その時は「ふーん……」としか思わなかった。
それからインターネットで相談できるサイトやBBS、2ちゃんねるなどでも書き込んでみたことがあるが、やはり「それは強いんだよ」と言われることが度々あった。

牧師に最初言われたときは何も感じなかったが、こういう機会が増えてくると、だんだん「”強い”とまとめられることで、その奥にある僕の気持ちとかそういうのが無視されてるような気がする」という思いになってきた。

僕は強い人間になりたいという気持ちはあるけども、その強さというのはやりたいことはやるということ、やりたくないことはやりたくないということ、だからアルバイトもどんなに気まずい状況でも1ヵ月でもやめます、といってサッとやめて次のアルバイトへ……というのが僕にとっての強さ(そうやってみんなワーキングプアになっていくようだけど)。

「3年半アルバイトやってました、やめたいと思ってもやめられませんでした、どうやってやめればよかったんだろう、やめつと言い出すのが怖かったのです」

これが僕の悩みであり、3年半アルバイトしていたところだけを取り出して「強い」という長所を見出されても、困るのだ。”傍から見れば”強い、ということだけど、僕は僕自身ゆえに傍から見ることはできないのだ(もっとも、あと10年20年したら見方が変わることもあるかもしれないけど)。
僕にとっては、3年半やめられなかったという事実は、むしろ「弱さ」だったのだ。

しかしこう考えていくと、自分の気分で動いていて周りに迷惑をかけてばかりいるように僕には見える母や亡くなった祖母が、僕にとっての理想像ということなんだろうか?だからこそ「僕には出来ない生き方しやがって」という気分が発生し、僕は母に苛立ちを覚えるのだろうか?そういう心理の働きも、もしかしたらあるかもしれないが、実感としてはわからないし、ない感じがするが、無意識ってのはよくわからないものだから、さてはて。


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40代以上の高齢ひきこもり問題?

最近、高齢のひきこもり、40代以上のひきこもりが問題になってきているらしい。そんなニュース記事を見た。対策は考えようも考えるつもりもないらしい。それはそうだろうなぁ、と思う。元々放っておかれた人たち、今後も放っておかれるであろう人たち。

自分もいつかそういう高齢ひきこもりになるのだろうか、と思いつつ、ふと「でも自分が高齢ひきこもりになる頃には、今の孤独死問題や年金問題とはまた別に老人ひきこもりが増えているはず。自分なんてひきこもりの中じゃ若い方に入って、意外と動きやすい世界になっていたりして」などと妄想を膨らましてしまった。

40代でひきこもりというのは、多分社会に出てから、働き始めてから挫折してしまって引きこもりになった、というパターンが多いのだろうけど、中には全くそれとは違い、それこそ小学生や中学生の頃から引きこもった結果、という人もいるのだろう。引きこもりという少数派の中で、原因が大勢と違うためにさらなる少数派に属する引きこもり。そういう人の方が、意外と加齢するごとに心が軽くなりそうな気もする。

僕は世代的には就職氷河期の世代になる。だけど引きこもっているのは就職に挫折したのではない。それ以前からすでに引きこもり体質であり、就職なんて一度もしたことがないのだから。
それなものだから、「〜歳から〜歳の世代は就職氷河期のためひきこもりが増加し」なんて記事を読むと、多少気まずい、肩身が狭い。就職難でひきこもったのなら世間には同情されることも努力が足りないといわれることもありそうだが、就職氷河期世代なのに就職難でひきこもっているわけではない人間には、世間の人は苦笑いをするしかなさそう。

就職に関するプレッシャーがない分、就職活動うまくいかなかったらどんなプレッシャーを感じるものなのか概念としてすらない分、意外と就職でずっこけてひきこもりになった人よりは心の荷物は軽いのかもしれない。それとも「今後ツケがまわってきて一気に荷物を背負うことになるよ」ということか。

支離滅裂、まとまらない。最近文章を書く意欲が減っている。いいことだろうか。


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映画「恋するシャンソン」を久々に見た

映画「恋するシャンソン」を見た。先日の「アメリ」と同様に、これも久しぶりに見る映画だった。アメリのように解釈が前とは違うかも、と下心を募らせて見たため、アメリほどの感情のさざめきは起こらなかったものの、それでも見方が変わった。

どんな映画かは僕が説明するよりも恋するシャンソン(1997) - goo 映画を見てもらうほうが早い。

数年前これを買ってみたときは、なんとも地味な映画だと思った。フランスの音楽が好きだからという理由だったしジェーン・バーキンが出てるからというだけだったからそれもしょうがないかな、とは思っていたけど。

今見ると注目するところが前とは違っている。

劇中にはうつ病患者がなんと3人も出てくる。そのうち一人、カミーユはパニック障害的症状を見せる。そしてこのカミーユを中心として、最初はみんなそれぞれ勘違い・誤解しあっていた登場人物は、カミーユも含めてうまいこと「雨降って地固まる」。

カミーユが全員をまとめる原動力になったモト、それは、カミーユがもっともうつ病の症状としては重かったからだろうか?カミーユを含めた鬱病の3人のうち、2人の男、ニコラとシモンはどちらも一見するとうつ病には全く見えない。シモンが「4年間うつ病だ」とカミーユに告白し、カミーユは思わず驚くほどである。うつ病の人でも他人のうつ病がわからないのだ。

カミーユは大勢の人前でもパニック障害の症状として息苦しさなどがわかりやすく出てくる(劇中では「うつ病」としか言われない)。

カミーユと仲たがいしていたニコラは、この症状を目の当たりにして、カミーユが自分と一緒の病気であることを悟り二人は互いに心がほどける。

単純なまとめ方になるけど、やはり「弱さ」というのはわかりやすく表に出した方がいいということだろうか?カミーユの症状は他のうつ病の2人に比べれば「弱さ」として人前に表出する。するとみんなが心配してカミーユのところへ集まってきてくれる。

ふと考えるが、うつ病ならびにパニック障害で、人前で「弱さ」として症状が表出してくるのは、からだやこころが「もっとみんなの前で弱音を吐け!弱さを出しちゃえ!助けを求めちゃえ!」という、シグナルなのではないだろうか?だって、みんなの前でそうなれば、みんなが心配してくれて、優しく介抱してくれたりするのだから。

加藤諦三だったろうか、「弱さを出した方が人には好かれる」みたいなタイトルの本を出してたのは。ブックオフで見かけただけだからあやふやだが。

ところでこの「恋するシャンソン」、今見るとそんな風に見えるのだが、全体的にはどうも喜劇っぽい感じがある。というのも、この映画一応ミュージカル映画のようなものなんだけど、普通のミュージカル映画とは違い、既存の歌を使っているのである。既存の歌が流れ、それに合わせて役者がクチパクをする(ジェーン・バーキンが自分の歌をクチパクするシーンまで!)。芝居をしている最中、そのシーンのセリフとして見合った歌詞の歌が突如流れ、役者はクチパクする。だから男性が女性の歌を、女性が男性の歌をクチパクするシーンもある。それだけならまだいいのだけど、シリアスなシーンでも突然明るい歌が流れたりするので、ギャグっぽくなり、これはとても笑える。

原題は「On connaît la chanson」。辞書を引き引き訳すなら、人はシャンソンを知っている、シャンソンを経験している、味わっている、というようなところだろうか。悲しいことがあったとき、その悲しい場面に見合った歌を歌えれば、少し気分がラクになるかもしれない。笑ってしまうかもしれない。あるいは悲しみがもっと増幅するかも。それで「ああ、人生はシャンソンだなあ」と悲劇にたっぷりと落ち込めるかもしれない。それはそれでいいのかも。

(ここまで書いていま、地震が起きた。地震の歌……なかなか思いつかない)

まとまらない。実はほかにさらに「チェブラーシカ」「ひまわり」(イタリア映画)も見ていて、感想を書きたいなと思ったのだが(特にチェブラーシカ)、どうも辺に評論家ぶってしまいそうになるので、「チェブラーシカの世界では、みんなが一人でいるけど、結局チェブラーシカが自然とまとめ役になって、みんな一人を楽しんでる、あの世界はうらやましいなあ」ということだけ書いて、この辺でやめておく。


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石田衣良「みんな空気読みすぎなんだ」

今日、踏み台昇降運動をしようと思って、DVDを見ながらにしようかテレビ見ながらにしようか音楽聴きながらにしようか考えた結果、なんとなくテレビをつけた。

NHKの「ハートをつなごう」という番組がやっていて、右上には「発達障害」という文字が。

一人の青年が発達障害者として出ていて、人とのコミュニケーションがわからず回避していたらいつのまにか孤立していた、ひきこもりになってしまった。母親も死んでしまい父親も60歳、料理の腕はあがったけどどうにかしないとということになり、児童施設のボランティアをはじめた。野球を子供に教え、慕われている。いずれは子供を支援する仕事につこうと思い、資格試験を受けようと思っている。

とのことだった。

見てみて、基本的にやはり表情が乏しい。以前NHKの別の番組で精神障害者を見たのだけど、その人も口元は動くけど鼻の真ん中より上は動かない。こういう人は確かにちょっと普通の人とは違うかも、とわかりやすい。

僕は、顔を動かすのがすごく好きだ。動かすといっても表情が豊かなのではなく、鏡を見てぐにょぐにょに動かすのが好き。それはものまね芸人のコロッケがやるような動きであり、最近女性の間で話題になってるフェイササイズ、フェイスヨガ、そういったものに近い動き。顔で遊ぶのがすきだということだろう。

よく発達障害や精神障害で医者にいくと、医者が「見た目、動きからしてもうそうだろうと思いました」といわれることがあるという。僕は普段顔を動かしているし、「人と話すときは表情を色々動かした方がいいっぽい」という考えがあるので、もし医者に見てもらうときになったら、表情がころころ変わってしまうかもしれない。発達障害、精神障害に多いらしい(全部ではない)無表情の特徴だけは、医者に気づいてもらえないかもしれない。

そんなことを考えたら、もし医者に見てもらう機会があったらそのときは表情を固くしないとなあ、なんて変な作戦を考えてしまう。

で、この「ハートをつなごう」で、ゲストで作家の石田衣良(「池袋ウエストゲートパーク」等)が、こうまとめた。

「みんな空気読みすぎなんだ」

僕は「わーっ」と思った。そうか、みんな空気読みすぎなんだ。あるいは、”読め”すぎなんだ。これは思いつかない言い方だと思った。自責の念にとらわれてる、自分を変えなきゃと思ってる限りは絶対思いつかない。

ただこういう言い方をするば「努力が足りないんでしょ」とか「そんなんじゃ社会生活営めないよ」とか「逃げるなよ」とかいわれてしまうな、ということもすぐ思い浮かんだ。こういう思いが募れば、いつしかこの「空気読みすぎなんだよ」という考え方の持ち方は消滅していってしまう。ひきこもりとかも、色んな前向きな考えを持っていたのに、消滅していってしまった結果かもしれない。

でも、こうやって色々置き換えてみると面白いのかもしれない。

「世間の親はみんな立派だ、それにひきかえ自分の親は」→「他の親は立派すぎなんだよ」
「みんなきちんと働いて稼いでる」→「みんな働きすぎなんだよ」
「男も女もみんなスマートな体型だ」→「みんな痩せすぎなんだよ」

自分でこう書いていて、やっぱりどこか言い訳じみてるように感じるのは、「こういう言い方は言い訳である」という理屈に洗脳されてるんだろうか?だって僕は、たとえば、僕の母が「中島みゆきは声が高いね〜」というのだが、中島みゆきは女性ボーカルとしては声が低い方なので、「中島みゆきが高いんじゃなくて、あんたが低くなったの。自分を基準に考えるんじゃない」と注意するんだから。

前に読んだ自己啓発書で、自分が出来ないと思ってることを、言い方を変えてとらえてみるというやり方があった。たとえば、

「僕はドッジボールができない」

だとしたら、

「僕はドッジボールができるようになることはしない」

という言い方にする。こうすると、出来ないことで自分を責めるよりも、単に”状態像”であるということに考えがシフトできるようになる、とかそんなようなことが書いてあったような……違うかもしれない。

でも、石田衣良が「みんな空気読みすぎなんだ」っていってたから、僕もわーっと思えたんだろうなあ。僕が読んだ訳じゃないけど、石田衣良は自分の小説でもLD(学習障害)などを取り扱っているらしいと知っていたので、石田衣良は僕にとってはそういう脳の形がマイノリティな人を見守る位置にいる人なんだろう、という気持ちがアタマのすみっこかどこかにあったから。石田衣良の小説読んでみようかな、とかすら考えている。

こういうふとした時に見たテレビ、本、映画、記事、etc、こういうのが何かのキッカケになる人は多い。後々になって、「あの時にふとNHKをつけて石田衣良のあの発言を見たおかげで、こういう道を歩むようになりました」みたいなことを言う自分になれるときがくるかしら。でもこういうことが起きるって意識してたらそういうエネルギーは少ないかな。

まとまらない。


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ひきこもりに農業は有効か

少し前に書いた記事で「40代以上の高齢ひきこもり問題?」というのがあり、それにコメントをもらった。

当初はそちらに返事を書こうと思ったのだが、これはひとつの記事として成立するかな、と思い立ち、コメントへの返事という形をとりながら、ひとつ書いてみようと思う。

ですからコメントをくだすった方には、あなたへの個人的な返事というわけではなく、あのコメントをきっかけとしてコメントへの返事という形式を取った記事だということを考慮していただけたら幸いです。それ以上の他意はありません。



コメントありがとうございます。普段は思うところがあり返事を書かないのですが、ひきこもり当事者の親御さんということ、自分としても考えることがあるので、なんとなく書いてみようと思いました。

農業に従事すればよい、還ればよい、ということですが、確かにそれでひきこもりから脱出する人、心の病が晴れる人もあるかと思います。体に負荷のかかる労働は疲労を覚えても、やはり心身にはいいこともあるようです。

が、しかし、「では農業の人にひきこもりはいないのだろうか?」と考えると……答えはNOだという気がします。

「農業ならひきこもりは治る」という考え方というのは、「そのひきこもり当事者の性質に農業が合えば」という考えを含んでそれが前提であれば有効かと思われますが、みんながみんなそうすればいい、昔に還れ、というと、やはり違ってくるのでは、と思います。

「農家に嫁にきたらうつ病になってしまった」などという話もききます。それは農業に縁のなかった人が農業に従事すること、農村でのルールに面食らってしまったからです。なんの本だったかな、農村でのひきこもりというのも増えているそうです。

また田舎や農村でのひきこもりとなると、親が世間体を気にして必死に隠してしまう場合もあるようで、問題として表出せず見えない、ということもあるようです。というより15〜数十年前の日本であれば田舎や農村に限らず、ひきこもりのような青年は「世間様に申し訳ない」とか言って子供の心など無視されて無理やり外に出されていた、あるいはひた隠しにされていたのではないでしょうか。それとも自殺してしまうか。アルコール依存症の父親の酒癖の悪さを一家で隠そうとしてしまう、母親や子供が暴力を受けることで続けさせてしまうのと大体一緒です。今、この現代にのみ起きている現象、と考えない方が得策は出てくるように思います。

昔もひきこもりというのはあったかもしれない、しかし昔は昔の社会構造があったため、”不可知な存在”であったという推測ができます。昔、父が「渋谷とかいくとスーツ着た人なんて誰もいなくて、チャラチャラした格好の変な若者しかいなくて困ったもんだ」と言ったことがあり、なんとなく不快感を覚えたものですが、今言うなら「そりゃ渋谷はそういう子が集まる場所であって、おとなしく勉強する子は渋谷になんぞはいなくて家で勉強してるんだから渋谷でそんな子探そうとしたって”不可知”だよ。スーパーの安売りコーナーでキャビアやフォアグラ探そうとするようなもんだ」といったところでしょうか。

農業へ、昔へ還る、というのはひとつの方法として重要な選択肢であるとは思いますが、やはり今という時代を考慮し、そして今のこの時代をあらわすさまざまな社会の成立等を考えると、農業へ還るということが無理のある人もいるかと思います。「もう時間なんて縛られないでさ、みんな家を開け放ってさ、自給自足で、仲良くやろうよ」とみんないっせいに出来ればよいのですが、そうはいかないし、僕個人としてもそれは望んでいません。

イチローが「いじめられてる人は、野球やろうよ」と言ったという記事を見たことがありますが、野球やスポーツがきっかけで孤立していく人、その中に入っていけない人がいる。まあ僕ですが。「学校より農業やろうよ」といってみたところで、やはり支援とサポートがなければ心のことは解決しない。そういうサポートをやってくれてる農家もあるようですが……。

そして農村というのも相当の”社会”でしょう。村八分という言葉がありますが、そのぐらい村の人間関係の結束が強いからこそ村八分になる人がいる、そしてその結束の中にいる人達はこの関係こそが最良であると信じている。この構造というのは、農業世界にしても一般社会にしても、同じなのではないでしょうか。

それと、現在農家の人からすれば、「ひきこもりには農業を」といわれたら「農業なめんなよ!!」と怒る場面が頭に浮かびます。

ただ最初に書いたように、やはり農業をやるというのは人によっては有効な手段ではあるでしょう。しかしそれは”アルバイト”や”ボランティア”や”旅行に行く”でも同じことだと思います。

まとまりませんが、僕の祖母も祖父も農業には関係のない人だったということ(二人とも学校の教師だった)、僕は農業の道については考えたことは今までなかった、という前提での僕による返事は以上です。


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中島義道 「孤独について」

今まで意識して隠していたのだが、そろそろ見る人もそれなりにいるブログになったようなので、種明かし的なことをしてもいいかな、と感じている。

僕がこのブログを一度リセットし、そしてネガティブな被害者意識を突き通して書き直し始めたのは、中島義道の「孤独について」という本がキッカケだった。

この本を読む少し前は、自己啓発本に頼っていた。斎藤茂太とか佐藤富雄、ジョセフ・マーフィー博士とかそういった潜在意識系の本。だからこのブログでもちょくちょく潜在意識とか無意識という言葉は出てきている。こういう本に、約1年ほど浸かっていただろうか。きっかけは「神との対話」という本、それから須藤元気という人間をほぼ同時に知ったことだった。

これらの本が言うのは、たとえば、ありがとう、とか、ついてる、とか口に出して言うことで前向きになれる、いいことがどんどん起きるというようなこと。なるほど、確かにやってみるとそんな感じもあった。しかしそうハッキリ感じていた訳ではないけど、やっぱり心のどこかで「なんとばかばかしい」「自分の望む幸せってこんなことじゃない」という意識があったように感じる。

そしてそれをハッキリと自覚するきっかけになったのが、中島義道の「孤独について」だった。

元々「働くことがイヤな人のための本」は読んでいたが、ピンとくるようでピンとこない本ではあった。しかしそれでもピンときていたから、以後「私の嫌いな10の言葉」や「カイン」などを読むようになり、中島義道の本を(ブックオフで)捜し求めるようになり、そして「孤独について」を読んだ。

僕が一年間やっていた自己啓発だのなんだのでかかっていた薄っぺらい自己暗示は、すべて吹き飛んでしまった。そうだ、やっぱりここなんだ。自分を言い表すものは、こういうところなんだ。

すべてがぶりかえった。というより、強烈なパワーでモトに戻ったような気がした。それから、久々に「山田花子自殺直前日記」を読む(よしもと芸人の山田花子とは別人)。そうだ、そうだ、これなんだ、これなんだよ。ここしかないんだ。そうとしか言いようのない同じエネルギーを感じる本である。

じゃあ一体何がどうなのかを書け、となると僕にはまだ出来ない。ただ一言で言うなら「孤独について」も「山田花子自殺直前日記」も、大変自閉症的であり、発達障害的であり、つまりアスペルガー症候群的であるということである。

僕は自己啓発本を読みながら、それでも自分は一体なんなのだろう、と心理学や精神分析の本を読むこともあった。その中で本が読みづらいことから学習障害/LDを疑った時期もあった。そしてひきこもりについてネットで検索してるうちに、中島義道の本や、「発達障害」ということをしる。山田花子の名でamazonで検索してみたら「隠蔽された障害―マンガ家・山田花子と非言語性LD」という絶版になった本を見つけた。山田花子がLD?という思いが募る。そこからまたLDなどについて検索してみる。アスペルガー症候群にたどり着く。

こうして、僕は中島義道と、アスペルガー症候群の両者を、ほぼ同時期に知ることになった。そしてこの両者のあまりの類似性に、「中島義道はアスペルガー症候群なのではないだろうか、誰か発達障害に詳しい精神科医とかが中島義道を読み解いて本を書いてくれないだろうか」などと考えるようになり、同時に中島義道とアスペルガーを併せて検索するようにもなった。

しかし検索してみるとやはり引っかかってくるのは2ちゃんねるのスレッドで、それも「アスペルガーて言うなレッテル貼るな」という類の書き込みが多く見受けられ、やはり哲学者に向かってアスペルガーを絡めることは、”空気的”に無理な空気があるな、と思った。それで今までこのブログには書かなかった。

だから本心は「中島義道の本を、発見されなかったアスペルガー症候群の人の手記、成育史、哲学として、読み取ってほしい。ひとつの生き方のモデルだととらえてほしい。支援団体等にそんな動きが出てきてほしい」というところ。中島義道本人はそんなことをしたらどう思うのだろう、とも考えるが、騒音抗議、人生半隠遁についての本等を見ると、いまや彼は何を言われても「あっそ」という態度らしく、また過去には彼は「分裂病の少女の手記」という本を読んで(※僕もこの本未読だけど持ってる)、その症状と自分の特徴の一致ぶりに驚いた、とあるので、もしも彼自信、発達障害ならびにアスペルガー症候群について未知であれば、同様の感情を覚えるかもしれない。

以下、直接中島義道とアスペルガーを同列に並べて書いた記事。

教えて私の「脳みそ」のかたち―大人になって自分のADHD、アスペルガー障害に気づく
・2004/6/11のレビューに「中島義道の「働くことが嫌な人の本」に通じる所がある。」とある。

アスペCOCO 人が好きか、嫌いか(その4)
・「アスペルガーの心の動きを知るには格好のライター。」とある。

うるさい日本の私 - 自閉症児のいる書庫
・アスペルガーではないが、自閉症の聴覚過敏という視点から「多くの自閉症の人やその家族が、中島氏と同様の苦しみを受けながら、うるさい日本と戦ったりかわしたりしていることを知ったら、どんなふうに思われるのか、ぜひ聞いてみたい」とある。

中島義道とアスペルガーの掛け合わせで、何かが発展していってくれないかなぁ、と漠然と感じている。


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「アメリ」の幼少期トラウマ考察

先日、映画アメリを見た感想をアップしたが、今回は、アメリの人格はどうして形成されたかというのを、映画の行間を想像しつつ、考察してみようと思う。映画では最初の方でかなり早回しでアメリのトラウマがいかに作られたかが語られるため、両親との幼少期の過ごし方について見過ごされがちになっている、と感じている。単なる両親の人格紹介だけと見られてる、と感じる。

以下、浅知恵による超素人分析のため、ちゃんとした知識の人には「プーッ」と噴出すか「ふざけるな」というようなレベルだろう、あるいは普通の人でも「そんなことわかりきってることじゃない?」といわれそうなことかもと思うけど、自分の思考整理のために、書く。

アメリの小さい頃、父は不在気味で、たまにアメリの健康を診るために聴診器をあてていたが、アメリはたまの父の姿に緊張し興奮し、鼓動が高まってしまう。そのせいで父はアメリを「心臓病だ、病弱だ」と思い込んでしまう。

多分アメリもその言葉をきき、そしてすぐ目の前でしかめ面をする父の様子を見る限り、単純に「自分は病気なのだ=自分はよくない状態の子供なのだ」と思っただろう。そんな年齢では「え、違うよ、これは緊張しててドキドキしてるの」なんて言いようもわかりようも自己表現のしようもないだろうから。

母はチックが出たりする明らかに神経症気味な人間。男の子が欲しいために教会に祈りにいくが、この時にアメリも連れて行かれる。これだけでも、アメリは「母は、自分よりも男の子がよかったのだ」ということを悟る、簡単にいえば「あたしは望まれてなかった子供だったのかしら」という感覚を、言葉を介さず、母親に対してイメージを抱いたことだろう。また子供にはありがちだが、素直に「あたしでごめんなさい、女の子でごめんなさい」という感覚も芽生えてしまっただろう。二つの微妙な感情。

そんなとき、アメリの母は教会にて、アメリの目の前で投身自殺者の巻き添えを食らい即死する。アメリの中の二つの微妙な感情は、母の唐突な死により解決手段はなくなってしまった。それどころかむしろ、自分が女の子であるためにそれが原因となって母は教会に来ていたのであり、母はその教会で死ぬことになった。アメリの中に「自分のせいで死んでしまった」という気持ちは当然芽生えたのではないか。

アメリの父にしたら、妻は亡くなってしまい、目の前には(誤診で)病弱なアメリがいる。父にとっては、アメリだけは亡くしたくないという思いがあふれただろう。そうすると、アメリの持つ病弱という記号は、父にとっては大変大きなものになる。多分アメリは父に相当大事に大事に育てられている。父子密着。

アメリは成長に伴い「あれは誤診だった」という思いにかられることもあっただろうが、そんな父を見て、言い出せずにいたのではないだろうか。病弱な自分であるということを保ち続けることにより、アメリは父の生き甲斐になれるのである。そしてこの病弱キャラであり続ける、ということが、ますますアメリに「自分は弱いちっぽけな存在」という自己暗示をかけることになる。

アメリが父に「旅行にでもいったら?昔はよく行ったんでしょう?」という。父は「それはママがいた頃だ、ママが死んでからはおまえが心臓病だったからいくことなんて出来なかった」という。アメリは「うん」と言ってしまう。多分こんな会話はアメリが自分の病弱は誤診だったと気づいた頃からずっと続いていたのだろう。そのたびにアメリは「違うの、それはパパの誤診だったの」と言えなかったのだろう。こうしてアメリは両親にからんで、ありとある自責感がつのっていく。

「誤診だということがもっと小さい頃に発見されていればパパはもっと違った人生だったはず」という意識も強くあったはず。

これらの要素が絡まりあいトラウマとなり、アメリはあの性格特徴を備えた大人になった、ということが、映画では前提となっている。


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アロマオイルなるものを買ってみた

(このブログもこの記事で100個目か……)

本はもっぱら古本屋で105円で買うことがほとんど。たまにどうしても欲しくてしょうがないムラムラする本(Hな本という意味ではない)、例えば「影響力の武器」とか「ラカンの精神分析」とかで、古本屋に何度か足を運んでも入荷しない本は、新品で買う。

そんな中、先月ぐらいに「アスペクト10 あなたも神経症」というムック買った。表紙のイラストをよく見てみると、若干ダウンタウンの浜ちゃんの横顔そっくりだなぁと思いつつ、毎日細切れに読み進めていた。

神経症って何か、神経症になった人のケース紹介、精神科医のエッセイ、癒しのあれこれ……そんなのが載っていた。僕はフランスのジャック・ラカンが(よく内容はワカランが)好きなのだけど、このムックの中に紹介されていたラカン派の精神分析医だという小笠原晋也という人を発見。いつか働けるようになってお金を稼げるようになったら、この人に分析受けよう……と思って検索してみたらアラやだ、殺人を犯して逮捕されていた。ガックシくる。やはりラカン派なら斎藤環なんだろうか、考えたら斎藤環の本でひきこもりに関するのは一冊も読んでないや……などと考えていた。

このムックを更に読み進めていくと、アロマセラピーについてのページがあった。

僕にとって、アロマってのはなんとなく興味がありながらも、敷居の高いものであった。アロマオイルを専用器具に数的たらして火をつけると、香りが部屋に充満する。その火を使う工程もなんだかしちめんどくさいのとかお金が結構かかるとかで、そういうので手がつけなかった。ムックにアロマの一覧みたいのが載っていたのだけど、種類も豊富すぎて、効能も「気分を落ち着ける」「精神を沈める」等いったい何がどう違うのかよくわからない。こりゃブルジョワの趣味だわ、と思った。

が、そういえば過去に身近にアロマを使ってる人がいたのを思い出した。かつて僕がアルバイトを(毎日やめたいと思いながら)続けていたときのことで、そのバイトで一緒だった何歳か年上の女性が使っていた。

「ティッシュにアロマを数滴しみこませたのをエプロンのポケットに忍び込ませておいて、仕事してて疲れてきたりイライラしてきたとき、嗅ぐと気分がちょっと晴れるの」

そう言っていて、「(イライラの理由は何かしら、僕だったりして……)」と思いつつ僕が興味を示すと、目の前でティッシュにアロマ数滴をこぼし、僕にくれた。嗅いでみたところ、ミントかジャスミンか、そんな香りで、ちょっと僕にはきつかったのだけど「きっとこういうのって高いに違いない」などと思い、「あーいい香りですね」とつい嘘をついてしまった。自分には合わない匂いだ、と思いつつ、せっかくもらったからMOTTAINAIみたいな気持ちと義務感でバイト作業中、場面場面で嗅いだりしていた。アロマにはそんな思い出がある。

話は変わって、最近加藤諦三の「行動することで人生は開ける」という文庫を読んでいる。タイトルそのまま、行動してみなければ何も始まらないしわからないよ、という内容を3ページぐらいずつひとまとまりの文章で書かれた本である。この加藤諦三、パッと見・パッと読みだと「神経症はなる奴が悪い」「ひきこもりは親不孝、非常識」ぐらいに受け取れてすごくいやな気分になることもあるのだが、ずっと前に105円でなんとなく買ってしまってMOTTAINAIので捨てることもできず、今ようやく読んでいる。

しかし「行動してみろよ」なんていう死ぬほどご忠告されてきたことも、部屋に座って読んでいるとオッサンの与太話だよな、と思いつつもなんとなく「そうかもなぁ」と思うところも出てきたりする。「この本を読んでみることで人生は開ける」にタイトル変えたらいいんじゃないのとか思ったり。

それからしばらくして、僕は百貨店内にある新刊本屋にいた。前日に色んな本屋と古本屋を探し回ったものの、どこにもなかった「スケッチは3分」という新書を買うため。もしもここにもなかったら諦めようと思っていた。この本の作者の山田雅夫はスケッチの本をたくさん出してるし、そのうち古本屋で見かけることもあるだろう、別にスケッチなんてやろうと思えばやれる……と思っていたが、ちゃんとその本屋にはあったので、買った。

買って本屋を出た瞬間、ふといい匂いがした。なんだろうと思ってみると、本屋のすぐ隣の化粧品コーナーに、アロマコーナーがあった。僕は足が止まる。「(行動してみることで人生は開ける……)」と頭にふと浮かぶ。幸い化粧品コーナーとはいえ、そのアロマオイルが置いてある場所は通路に面しているところで、化粧品コーナーに入らずとも試飲、試着ならぬ試嗅ができた。「TEST」と書かれた「おためしにどうぞ」的なアロマの小瓶を次々に嗅ぎ試してみた。ジャスミン、ラベンダーなどは合わなかった。りんご、オレンジ、バニラなどの匂いは自分にあった。べたべたに甘い感じの匂いがよかった。

ただその時点ではもうお金がなかったので、「いつか買おう」なんて思って去った。指先にはフタをあけたときに微量のアロマオイルがついたのだろう、色んな匂いがまざって複雑ないい香りがした。何度でも指先を嗅いでしまう。かなり意識的に嗅いでしまう。(そういえば松本人志がテレビ番組でゲストにだまされて「うんこの香水」が指先についたとき、「アカン、いやなんだけど、何度でも嗅いでしまうわ」と言ってたなぁ……)

自転車で家に帰る途中も、何度も嗅いでしまう。たかだか香りでこんなにいい気分になれるとは……そういえば「嗅脳」なんて本も読んだなぁ、匂いと脳についての本……お腹がすいても、こういういい香りを嗅いでしのげば、ダイエットになるかもなぁ……そんな風に色々考えていた。しかしちっちゃい小瓶で600円ぐらい。まあ当分は買わないだろう。

「色々やってくれるから」。そういって父は僕に1000円渡した。皿を洗ったり、料理してくれるから等でたまーにこういうお小遣いをくれるときがある。僕は1000円を受け取って頭の中で思った、「アロマ……!アロマ!」。でも600円かー、高いなー、105円の本が5冊買えるのかー、うーん。と思いつつ読みかけの本を読んでいた。が、やはり頭にふっと浮かぶ「(行動してみることで人生は開ける)」のタイトル。「ちょっと出かけてくる」といって、僕はアロマを買いに走った。

結局買ったのは、苺のフレグランスオイルだった。使い方には火で焚いたりコットンなどにしみこませたりとあるけど、とりあえず僕は手の甲につけてみた。うーん、いい香りがする。何度も嗅いでしまう。ところが、自分の体から分泌されるものと混ざるのか、だんだん匂いの感じが変わってきて、何度も嗅ぎたい香りではなくなってくる。こうなるとこうなったで匂いの変化が気になり何度も嗅いでしまうのだけど、これはどうやらそういうことではないらしく、単に嗅ぎすぎたせいで、もともとの成分であるオイル=油の匂いまでわかるようになってしまっただけのことらしい(推測)。というわけで少し時間をおいてあらためて手の甲をかいだら、最初の時より少し薄まった感じだけど、いい香りがした。それからハンカチにちょっとしみこませて嗅ぐというのもやってみた。手の甲とハンカチ、どっちがいいかなあと思ってるところ。ハンカチの方がいいかなぁ、しみこませたものが乾燥しても、水でちょっとぬらせばまた香りが立ちそう、でもハンカチの方がしみこむ量は多いな、どんどん減ってしまうかも……などと考えている。


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清水翔太の「HOME」に違和感を覚える

このブログの最初の方の記事で、清水翔太の「HOME」に共感できないと書いた旨、このsociologically@はてなというブログに取り上げられたので、このブログから見に来る人もいると思うからもう少し詳しく書こうと思う。

その前に、歌詞はこちら。→HOME 清水翔太 歌詞情報 - goo 音楽

「HOME」に共感できない理由としては、まず大きなものとして「元ひきこもり」ということを知らなかったとしても、共感しない歌詞だったろうということがある。90年代後半さしかかって以降ぐらいの、昨今にはありきたりなテーマとフレーズにまみれた歌詞。ドラマでいえば終了15分前に熱血漢あふれる主役がすねてる奴に向かって説教し、そいつが改心して解決、の部分だけを切り取ってスローモーションなフレーズに変換しただけのような歌詞。「自分探しの末やっとここにたどり着けたよ、ありがとう、みんな繋がってるね、メッセージ伝わってるよ&伝えられてるかな、大切な何か、ゆるぎないありのままの自然な自分今確かに胸にちゃんと抱えてる?」というような内容の歌詞は、もう、一切いらないです、というのがまずある。

次の理由として、「元ひきこもりの大物シンガー」だと先に訊いていたので、僕はかなり清水翔太に期待を抱いてからこの詞を見てしまった、ということがある。「元ひきこもりならではの歌」というのを勝手に頭の中で期待したのだった。ありきたりソングなんかではなく、きっと何か具体的な描写のあるグッと来る歌だといいなあ……そんな風に思って歌詞を見たら、先に書いたように、「特別元引きこもりという肩書きをつけてアピールするほどのものか?」という気持ちになり、期待が大きかったために落胆も脱力感も大きかったということ。

そしてもっとも大きい理由の一つとして、彼自身が”引きこもりだったときの清水翔太”を良くなかったものとして否定しているかのような内容であること、過去の彼を殺してしまったように感じ取れること、そしてそれこそが正しいことであるということを流布しているように思えるところに、違和を感じる。

この歌は、すでに部屋から&家から出て「状態としての”引きこもり”」はいったん卒業した段階からの内容になっている。引きこもりから抜けた直後から歌手デビューに向けて活動をはじめ、その中から沸いてくる自分の内面の葛藤や嫉妬やエゴなどを解きほぐし救い出してくれた(?)人達への感謝の歌になっている。だから本来「元引きこもり」という要素は、すでにこの歌の中にはない。部屋の中で布団にくるまって悶々としていた描写だとか自殺してやろうかだとかそういう描写がある訳ではなく、部屋から&家から飛び出して、ある程度人並みに外部との接触をするようになってからの歌である。そして大成したから、周囲の人達も目を細めて「大人になったね、立派になったね、やっと子供から&ひきこもりという忌まわしい状態から卒業したね」と言ってくれる。

しかし清水翔太の売りは「元引きこもり」であるため、引きこもりの歌では一切ないはずなのに、一瞬前半の歌詞を聞いただけだと「ひきこもりであった自分は何もわかっちゃいなかった、周りに迷惑かけていた、ひねくれていた、親不孝だった、クズだった」と言っているように見えてしまう。ここでどうしても引っかかってしまう。だから「共感が出来ない」というのをあえて何か言い換えるなら、「元引きこもりって肩書きでで売るな、そうするんであれば、元引きこもりならではの描写のある歌を作れ、その頃に書いていた作詞だってきっとあるだろう、それを歌え」というところだろうか。しかしそんなものを歌って出したところで今の世の中では売れそうにもないだろうけど。

(で、引きこもり的な歌って何よ、と考えたら、何気にいっぱいあるんじゃないかとは思った。Coccoだとか戸川純だとか中島みゆきだとかetc……。男性ボーカルだと引きこもりという形ではなかったけれど、やっぱり尾崎豊とかになるんだろうか?詳しくはない。考えたら芸術表現する人というのは元を辿ればみんな引きこもり性質のある人がほとんどではないのか。社交的に自己表現できるのなら、わざわざ芸術を介して物事を伝えようとする必要はない)

そういう訳で、僕が最初の記事の方で全く共感ができないと書いたのは、あの段階ではテレビで元ひきこもりであるという紹介とともに歌の一部を聴いただけ&歌詞の全体を見渡してなかったこともあり、「元引きこもりがひきこもりだったことを恥じて反省してそのことを歌ってる歌」だと捉えていた事による。だから、あくまで「ひきこもり状態から抜け出してしばらくしてからの内容」、「普通の生活に戻ってからの葛藤と成長の歌」だというのであれば、この歌のような心の変化もあるだろうな、と理解はできる。

そして引きこもりから抜け出しこうして歌手になれたというのは純粋に凄いし羨ましく思う。みんながみんなこうなれる訳ではない。見事なまでの勝ち組。音楽センスというのか感性的なものはやっぱり若々しくて新しくて洗練されてて最新的で、こーゆー音楽とかサウンドはもう僕みたいなオッチャンの耳とアタマは付いていけまへん。

最後に、すっかり忘れていたけど僕が3年前にどうやら作ったらしい、作詞のアイディアのようなものを記す。タイムスタンプは「2005年5月9日、19:45:26」になっている。大変稚拙で恥ずかしいのだけど、これを読んでいただければ、いかに「普遍性あふれるありがちなフレーズの詞」が嫌いかがよくわかってもらえると思う(「うわー、頭の中、ひねくれてるねぇ」といわれたらおしまいだけど……)。要はシャンソン要素がある歌が好き、「C'est la vie.」といいたくなるような。てにをはがおかしいところだけ直した。


「隣家の狂女」


隣の家の娘はきちがいだ
恋人を事故でなくしてばかになった
悲しいのか訳がわからないのか
日がな一日わめきさけんでいる

 ただピアノの腕だけは衰えていない
 彼女が弾くのはいつでも楽しい円舞曲
 そのピアノの調べが聞こえてくると
 私の心は弾むの


隣の家の娘はきちがいで
そのせいで家族はみんな毎日ノイローゼ
彼女の弟はそれで自殺してしまい
あの家族には暗雲がたちこめていた

 ただピアノの腕だけは衰えていない
 彼女が弾くのはいつでも楽しい円舞曲
 そのピアノの調べが聞こえてくると
 私の心は弾むの


ある日隣の家の娘が丸裸で
街へ飛び出していった時誰も止められず
彼女は車にはねられてしまった
ボールのように彼女は宙を舞い死んだ

 彼女のピアノはもう聴けない
 彼女が弾いたあまりに楽しい円舞曲
 そのピアノの調べを思い出す度
 私の心は重くなる



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ひきこもりはある日突然自殺する……中川勝文について

数日前、「ひきこもり卒業マニュアル」という本を古本屋で105円で買った。

ひきこもり卒業マニュアル (新風舎文庫)ひきこもり卒業マニュアル (新風舎文庫)
(2004/01)
中川 勝文

商品詳細を見る


本当は斎藤環の「「ひきこもり」救出マニュアル」が欲しいところだけど、この本はこの本で知っていたので、105円ならということで買った。というより、以前確かこの本は300円ぐらいで売ってたのを知っていたんだけど、それが値下がったものらしい。そちらの値段の棚では置いてなかったし、105円の値札シールが上に重なっていたから。

さてこの本、内容は大変読みやすく、「ひきこもりであることをアリとしよう。のんびりいこう。ひきこもれる環境ならひきこもっていよう。」というような、ある種の自己啓発のようにも感じ取れる本。特別ひきこもりでなくとも生きるスピードをゆるめるための本を探している人になら、合致する内容だと思う。言い換えると、普段きつきつのスケジュールで体壊しそうに働いている人が読むのなら、「なめんなよ!!」と床にたたきつけたくなるような場合もあるかもしれない。

僕もなんだかんだで「ひきこもれる限りはひきこもっていようかなぁ」なんて考えている節がある。というより、そういう考えをようやくすることが”できるようになった”。

去年ぐらいまでだろうか、自分の部屋に父や母が入ってきて、大説教したりするんじゃないかとビクビクしていた。親が階段のぼってくるたびドキドキヒヤヒヤする。そして扉をノックすることがなければ、ああ安心、と息をつく。しかしふと思考が変わった瞬間があった。一体、このひきこもっている期間で、何度おとう(父)が僕の部屋に入ってきたことがあっただろう?それも僕に用事があるというようなことで。確かに何度かはあった、僕が布団の上で雑誌を広げているのが見えなかったのかなぜかよりによって一番気に入っているページを踏まれたこともあって絶叫したこともあったし、僕の布団に横になり「このCDとか全部捨ててあげようか??」と言われて青ざめたこともあった。それらは強烈な体験ではある。が、それでも圧倒的に、部屋に入ってこず何も言わない事の方が多いんじゃないのか?そこまでおとうが部屋に入ってきたり何か言ってきたりを気にする必要ないんじゃないか?そう思い始めた。「今この瞬間はどういう状況か」ということを考えてみるとよい、というようなことが須藤元気の本かなんかにあったように思うのだけど、それで考えてみると、圧倒的におとうと関わっていない瞬間の方が絶対数が多い。そう考えたら、少しずつではあるけど肩の力が抜け、今では明らかに父に近づいているときの全身のこわばりの度合いがゆるんでいるように思う

こうして、僕は「ひきこもれているなぁ、なんだかんだで平和だなぁ、たまにおかあ(母)がとんでもないこと言ったりやったりするが」と、わりとのんきな思考になれてきた。もっとも、中島義道の「孤独について」を読み、このブログを再スタートさせ、しばらくの間強烈なネガティブエネルギーを燃やしていた時期もあったけれども。と、現時点で過去形で語れるようにはなっている。このブログで2ヶ月ほど独りよがりに突っ走った成果か。やはり一人になって煮詰まるのはいいことなのかもしれない。こういうことについては、リルケの「若き詩人への手紙・若き女性への手紙」っていう本がいい。

それで先ほどふと「そうだ、ひきこもり卒業マニュアルで作者はホームページやってるって言ってたな」と思って検索してみた。が、「中川勝文 ひきこもり ブログ」などで検索しても、それらしきものは出てこない。ブログではないのかもしれないと思ってワードを変えてやってみても、まだ出てこない。そのうちにどうやら中川勝文という名前ではなく、ネット上では賢という名前で活動しているらしいとわかった。それで検索してみると、ホームページと日記にたどり着いた。

まったり賢 Ken's Radical Mentality
賢のふらわ〜日記
あなたのココロ、治します。

しかし日記が2005年9月から更新されていなかった。ははぁ、どうやらここから忙しくなったに違いない、何か仕事とか居場所とかのあてが出来て、もうサイト更新とかも出来なくなったのでは……そう考えたものの、違った。

彼は突然自殺してしまった。以下は彼の兄による、ホームページ閲覧者へのお知らせの書き込み。

賢が死んでしまいました

日記の前後にも自殺企図の兆候は見られず、遺書もない。警察に遺体は保護されたとのことから、飛び降り自殺だったのだろうか。「躁鬱の波もあったものの、ポジティブになりつつあった」ので、自殺の理由は遺族としてもわからないという。

そしてここで僕について考える。僕は彼とは違いうつ病ではない、あるいは診断されればそう言われる可能性もあるかもしれないが、精神科には行っていないためそういうのはとりあえず”ない”。そして思考回路としては、彼とだいぶ共通する部分がある。自己啓発本も読んだり、読書に耽ったり、ブログをやることで自分をまとめようとしたり、自助グループに参加しようかなあ、精神科にいってみようかなあ、etc……。彼が辿っていたやり方・思考を、かなり似た感じで僕も辿っている&辿ろうとしている。この辿り方のパターンは、「のんびり生きられる環境があればそれでいいよね、ダメ人間でもさ」と考えるひきこもりにはありがちな「人生・思考の辿り方パターン」なんだろうか?

だとすれば、やはり最後も同じ辿り方をして、自殺に行き着いてしまうんだろうか?僕も?わからない。僕は現時点ではうつ病ではないから。

遺族による中川勝文についての本とか出る予定はないんだろうか。個人的には彼が推奨していたように、自費出版とかでもいいので読んでみたいから出してほしいような気もする。

ホームページTOPからは見つけられなかったものの、検索で発見した彼のプロフィールページ。

about 「賢」

またamazonでもレビュー活動していたようで、amazonのプロフィールページ。

Amazon.co.jp まったり賢さんのプロフィール

ほしい物リストは公開のままになっているため、本名は中川賢であることがわかる。ペンネームの「勝文」とは彼が物書きに・作家になりたいと書いていたことから、「文章で勝つ」という意味をこめてのことだろうか。しかし彼の生前のレビューを見た限りでは、他のユーザーからは彼によるレビュー内容はあまり賛同してもらえていなかったようだ。

「まったり賢」の名前で検索すると、ネット上での彼の交流などが少し垣間見られる。

まったり賢 - Google 検索


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続・清水翔太について

この記事の追記的続きです。

よくよく調べたら清水翔太はまだ18歳らしく、引きこもりというのも”中学校ではなじめなかった”ことによる「不登校」のことらしい。しかも中学卒業と共に音楽修行を本格化させているとのことで、「元引きこもり」というのも別に公式なプロフィールという訳ではないらしい。

彼は多分中学の段階で将来の展望を心の中で決めていたのだと思う。その時から、ネットラジオを通して、2ちゃんねる内で歌を配信していたらしい。そんな自己表現が出来ていただけでもすでに充実している不登校生活だ。渡辺浩弐の推奨するひらきこもりを実践したような感じだろうか。

そしてそうやって不登校したことでまさに音楽に浸り切って自分の感性とかを熟成させる事ができる環境に身を十分に置けたのだろう。そう考えると「HOME」の歌詞はよくわかるような気もするし、また不登校やひきこもりという状態の時期も、決して無駄ではないというひとつの証明になる。

ということで、清水翔太は元々ひきこもり=不登校の時期の段階から、やっぱり周囲にあたたかく見守られていたんだろうなぁ、と想像する。僕は幼稚園・小学校からなじめずようやく小五から不登校を覚え始め、中学の不登校では薬飲まされて病院で注射打たれておかあにヒステリックにぶち切れられて僕は僕で大泣きしたりして。清水翔太の不登校のあり方が大変羨ましい(あくまで想像だけど)。

ただインタビューを読んでみたところ、彼は「ソウルメイト」とかを全く抵抗なく信じているらしく、そういったスピリチュアリズムな観点からポジティブなことを見出せているところもあるようだ。今、スピリチュアリズムに傾倒している人はものすごく多いから、確かにそちらの畑に行けばあたたかく迎えてくれる人はたくさんいそうだ(僕はイヤだけど)。

しかし思うのは、あるブログの記事で、僕が以前に清水翔太についてちょこっと書いたのを取り上げられただけのことがキッカケで、僕はこんなに執念深く清水翔太についてうだうだと書き調べ上げているのだから、キッカケはどうあれ一体何に興味が向くかなんて自分でも本当にわからないもんだと感じる。あと数日したらすっかり清水翔太の大ファンになってたなんてことも有り得るのかもしれない。そしてこういう事が、ひきこもりから抜け出す梯子へとなっているのかもしれない。



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中島義道と山田鷹夫と松本人志と

2年前あたりから読書を始めた。須藤元気がキッカケとなり、読書をしてみようということになった。しかしそれまで全く読書をしてこなかった人生だったから、とにかく本が読めない。一行が頭に入るのにものすごい時間がかかることもあった。ただ、それは最初に選んだ本としては「神との対話―宇宙をみつける自分をみつける」という平易な言葉でありながらやや複雑な内容であったため、と今では考える。なぜかというと、今でもこの本、なかなか読み進めることが出来ない本だから。結局売ってしまったのだけど、字面だけを目でなぞって読み終えた。ただこの「字面を目でなぞるだけ」というAll or Nothingではないざっくばらんな方法を”有り”とすることができたのは、一つの収穫だったように思う(そこをスピリチュアルな必然という解釈につなげたくはないが)。

そんな読書生活を始めた中、その生活の割と初期の方で買った本で「人は食べなくても生きられる」という本を(当然105円で)購入した。山田鷹夫という人の本で、タイトルそのまま、人は食べなくても生きていけるという内容。

(ふと、ここで「生きていける」を一瞬「生きていかれる」と書こうとしたのだけど、抵抗感があってやめた。「〜ていかれる」というのに慣れていない)

常にダイエットも気になっていたから、そういう意識で買ったのだけど、当初は「失敗した」と感じた。とにかく文章の書き方がたまらなくクドイ。僕流に彼の書き方を踏襲して説明すると、こうなる。

つまりだ。この山田鷹夫という男。得体の知れぬ男。しかし不屈な男。彼は哲学者だ。そう、思考を糧とする哲学者。女神に選ばれし者。しかし女神は彼に試練を与えた。不食という試練を。だが彼にはなんともなかった。あなたは驚くだろうか?僕が言ってることがわかるだろうか?食べないのである。人類が脈々と続けた行いを。すべての基となる行為を。食べるという疑うことすら疑いようのない行為を、断じたのだ。人類への挑戦である。常識はいつでも”非常識”という名で真実を背中に隠してしまう。だが彼はその背中を見た。ついに見た。彼は実践したのだ。不食を。

と、一冊ずっとこういう調子。これが普通サイズのハードーカバーの単行本のページ数、ずっと続いている。読書を始めて間もない頃にこれは微妙な意味で衝撃的だった。しかしせっかく買ったものだし、(いまだその考えからやや抜け切れないのだが)読み始めたものはキッチリ読まなくてもいいという考え方がどうしても受け入れられなかったため、「ああ、もう、うっとうしい、うっとうしい……」と不機嫌になりながら、時には本を壁に叩きつけたくなりながら、なんだかんだで最後まで読み通した。そして以後読むことは当分なく、これはしばらくそのままにした。

それから一年以上経過してから、僕は中島義道にはまっていた。「働くことがイヤな人のための本」という直球のタイトルの本を手に取ったのがきっかけだった。それ以前は中島義道などという存在は知らなかったし、この本もどちらかというと勝手な先行イメージとしては「ひきこもってスローライフしましょう、今はそれができる時代です」というようなことの推奨や「働くためには以下の機関が有効です、都会でなければ電話相談ネットサイトうんたら〜」とかそういうのが列挙されてる職に関するガイドブックorマニュアル本のようなものかと思っていた。

それは全くもって違った。中島義道という人は、他の本も併せて読んだ限りでわかったのはひきこもりだったし、家庭では共依存(アダルト・チルドレン)だったし、自閉症あるいは発達障害的だったし、神経症的人間だし、自殺未遂も経験したが、なんとか生き延びる形を哲学で獲得した結果、とんでもなく頑丈な偏屈哲学オッサンへと変貌した人であった。だからこそ、僕は中島義道の本にのめりこみ、「孤独について」は僕にとってはもっとも早く読み終えることが出来た一冊になった。こうして中島義道の本を(古本屋で)探すようになっていった。

さて久々に先月か先々月ぐらいだろうか、一年以上ぶりに山田鷹夫の「人は食べなくても生きられる」を読んでみた。これが不思議なことに、あの「うっとうしさ」を、本を投げ飛ばしたくなるように感じることはもう全くなくなっていた。文章がどこがくどいかというのは今でも事実として認識できる、でもそのくどさがどうってことない。以前は彼の行う魚を100匹ぐらい殺す実験だとか腐った刺身を食べる実験だとかにいちいち「ハァアアア!?」とブチ切れていたのが、もうなんてことない。

それは、「うっとうしさ」「くどさ」を感じる受け皿が、中島義道を好意的に読んだことで、満杯になってしまってもう空きがなくなった、みたいな感じのことなのだと解釈している。カンタンな、あるいは一般的な言い方をすれば「中島義道の本によって鍛えられた」という感じになるだろうか。

話は少し変わり、出来ない・やれない・怖い・苦手だ、と思っていることで、最後にそれを行った時期からだいぶ経過している場合&食わず嫌いな場合、実際に恐々ながらでもやってみることで、「なんだ、やれたじゃん、できたじゃん、大したことなかったな」という風に思えるようになる、というやり方がある。名称はなんだったろうか、やり方から考えれば「行動療法」だろうか?

僕は古本屋に行くたびに3時間ほどねばって買いたい本を選んで数冊買うのだが、ふと最近「3時間もねばってこれしか買いたい本がないってことは、新品でもサッと欲しい本を注文して買うほうが結果的には安く済むかもしれない」等思うようになった。そこで行動療法的なニュアンス&思考で、状況によっては新品も抵抗なく買ってしまおう、という結論を出した。

それから、105円とはいえ、背表紙が汚いもの、若干やぶけのあるもの、中に書き込みがあるもの、カバーにシワがついているものなどは、色んな理由から避けていた。だが今月ぐらいから「そういう本も思い切って買うほうが、本の選択の幅が広がるなぁ」と思い始めた。それらの理由のために避けてきた本の中に、結構良書があって逃していたこともあったのではないか、と思考した。そもそも思い出せば、河合隼雄と谷川俊太郎に興味を持ち始めたのも、読書生活初期の頃に「ええい、迷っていては何も買えない、買ってしまえ!」と中身も見ずに背表紙の色あせた本を(105円で)購入したのがはじまりだった。最初のきっかけはそうしていたのだった。そんな経過で、最近古本屋にあえて汚い本で欲しい本を探しに行ったりした。

そんな風に古本屋に行ってみるとふと松本人志の本、「「松本」の「遺書」」が目につく。単行本の「遺書」は以前から古本屋でシドニィシェルダンなどと共にやたら過剰在庫になっているのと「ダウタウンの松ちゃんの本か」ということで時々気になっていはしたのだけど、過剰在庫ゆえにいつでも買えるなぁと思っていたこと、またチラ見をした限りではただひたすら激怒しているような内容であり、自己主張と正当化の激しい内容であり、なんか鼻につくなあと思って購入は避けていた。だけど、これも一種の食わず嫌いみたいなもんかも、105円だし、鼻についたら読まなければいいし、と思って、ついに先ごろ買った。

そして今日、読み終えた。感想はというと、この「「松本」+「遺書」」そのものがどうこうというよりも、やはり「偏屈オッサンの受け皿は中島義道によって満杯だ」というのがよくわかった。以前チラ読みした時はとても鼻についたのに、多分そのチラ読みした時にイヤな感じを受けたところであろう箇所を読んでも、ふと「中島義道もこんな感じだなぁ。一緒かもなぁ、同じかもなぁ。つまりこういう性分を哲学で昇華したのが中島義道で、お笑いで昇華したのが松ちゃんなのかも。」と思えるようになっていた。

一行まとめ。

中島義道を読んだおかげで、山田鷹夫とか松本人志とかの本は特に抵抗なくすんなり読めるようになった」

中島義道最強伝説


……関係ない話だが、昨日あたりから幻聴のようなものが聞こえる。なんとなくなので、よくわからないし断定できないけど、もし続くようだったらまた後日書きたいと思う。


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「名前をつけるから、存在するように感じる」

多分中島義道の本だと思ったけど、「名前をつけるから、言葉があるから、それが存在するように感じる」というのを読んだ。過去、現在、未来、時、etc……。名前があるから存在するように感じる。ひとまとめに何かあるように思える。

これと同じことが、「ひきこもり」や「ニート」にもいえるのではないか。

僕は今、ネットで何か自己紹介する機会があれ