塵も積もればヒキコモリ

僕はアル中の両親にはさまれて戸惑う子供だった

小学生の頃、母が夜に呑みに出かけることがよくあった。それも父に隠れて行く。あるいは、確か父が帰ってこない夜に行ってたような気がする。あまり覚えてはいない。というか、母が呑みに行くタイミングはよくわからなかった。

日中、父が僕に「お母さんは昨日何してたの?」と母の前で訊ねるようなことがあった。するとクリスチャンの母は僕の方を見てものすごい形相と勢いでウインクを繰り返す。「(変なこというな、いつも教えてるとおりに言え!)」という意味である。僕は母に教わったとおりの嘘を言う。父はだまされる。

最初、このアイコンタクトを母がした時、その意味がわからずそのまま父にしゃべってしまった。後で二階の和室でクリスチャンの母に折檻された。実際にたたかれた訳ではないが、ベルトを持って恐ろしい形相で僕を攻め立てた。「なんであのときああいった!」と。そんなこといわれても、ああ言ってなにがいけなかったの?という気分で全身が満ちたが、結局次回以降は嘘を言うようになった。

一方父は父で、ぐでんぐでんに酔っ払って部下に支えられるようにして帰ってくることが多かった。やかましく大声で騒ぎ立てながら玄関のところでドタバタやっている。僕は階段や二階からその様子を見ていることもあった。僕にとっては(今表現として言うならば)化け物にしか見えなかっただろう。そのせいか、今でも家の中で父や母が大きなドスンバタンという音がすると、体がビクッとする。

父も母もアル中だったのだ(アル中というのは何も手足がプルプルふるえ、一升瓶を浴びるように飲むようなもの、とは限らない)。共依存に陥ったアダルト・チルドレンには、父親がアル中で、母親と他の家族が協力してそのことに触れないようにしていたような経緯がある、というのをどこかで読んだ。しかし僕の場合は事情が違い、父の化け物のような酔っ払った姿は姿で厄介で恐怖を覚えるものであり、そして母の隠れて飲みに出かける姿は僕だけが知っていてそれを隠して嘘をつかなければならない事情だった。

僕は学校ではいじめられ、親に言うこともできず、家では酒を飲む父と母に戸惑い、キリスト教を信じさせられていた……そういう訳のわからない状態での子供だったのだ。こういうのも機能不全家族とか言うのだろうか?

そういえばその頃の兄に関して、記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。あのとき、兄はどこにいたのだろう?


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「毅はやさしいんだねぇ〜」

「毅はやさしいんだね〜」

僕が繊細であることをさすとき、飼い猫をうまくかまっているときに母がよく言う言葉だ。

僕はこの言葉に何とも言いづらい不快感、抵抗感、違和感があった。それがなんなのかわからなかったのだけど、ようやく最近わかった。

つまり、母が「毅はやさしすぎるから、ちょっとしたことでも傷ついたりつまずいたりするのね」と母が言うのは、僕に原因があるという言い方になっているということ。それから、母が言うその「やさしさ」の先、奥の部分を母が見ようとしてくれないこと。そこに苛立つのだと思う。

いったい何に傷ついているのか、傷ついて行動が固まってしまっているのか、ひきこもっているのか(母には僕はひきこもりに見えていないようだが)、対人がうまくいかないのか(そこまで深刻ではないと思ってるようだが)、そういうところを母は一切見てくれなかった。僕の状態像を外から見て、母の方から見える僕の姿をただ形容するだけなのだ。

今飼っている猫は、僕がほとんど懐かせ、またある程度の芸(?)も仕込んだ。それはこの猫の行動習性を観察していればわかることなのだけど、母はそれも「やさしいから通じ合える」という風に、若干スピリチュアリズム的な言い方で評する。「やさしいから細かいところまで動きが見られる」ではなく、「やさしいから以心伝心的に通じ合える」という言い方。

それは母の中では「キリスト教のわからない部分、むずかしい部分は見なくていい、勉強しなくていい、神様を信じてれば天国にいける」というような単純な信仰を持っているように見える部分と重なる(もっとも、父がキリスト教の勉強をし始めたときは「ベテランの私を越せるものか」と思っていたようだが。その自信の源となるような学は、母にはなかったのに)。

似たようなエピソードで、今書いていてひとつ思い出したことがある。小学生時代。

その日僕は虫歯治療か抜歯をし、家に帰ってきた。宿題をやらなくてはいけない。そのうちに麻酔が切れてきて、今まで味わったことのないような痛みに号泣した。しかし宿題をせねばならない。僕は号泣しながら大声でわめきながら宿題に向かっていた。すると母が父にむかってこういった。

「見て!毅は泣きながらも痛みに我慢して宿題やってる!根性あるよこの子は!」

父も「わー本当だ」というようなことしか言わなかった。二人とも僕の痛みを理解しようとか慰めようとかそういうことは全くしてくれなかった。ただ外の位置から感心しただけだった。そんな両親の姿を泣きながら見て僕は「いったいこのバカな親たちは何を勝手なことを言ってるんだ」と感じていた。


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「「ひきこもりとニートの違い」を考察、図に表してみる

「ひきこもりとニートって何が違うの?」と書かれた記事を見つけ、それに影響されて自分も考えていた。そうして、ひとつのモデル図のようなものが出来上がった。はっきりいってこういう理数系(?)のようなことは苦手なのだけど、一応書いておこうと思ったので、ここに記す。

まずこのモデル。

ひきこもりとニートの違いのための図


この箱の、横が行動範囲の広狭。もっとも「広い」は外出したいときに自由に外出できる、もっとも「狭い」は自室にこもり日常生活がまったくもってままならない状態、自室に寝たきりのような状態。etc

縦が就職義務感の強弱。もっとも「強い」は「仕事に就かねば」とハローワークにいったり求人情報を集めて見るような状態、もっとも「弱い」は「働いたら負けかな」と思ってたり「仕事なんかできない!したくない!」となっているような状態。etc

斜めが心理的圧迫感の強弱。もっとも「弱い」は余裕のある人、もっとも「強い」は自己像がゆがんでいたり、神経症や精神病担っていたりする人。etc

こう考えて、いくつかの例を作ってみた。極端な例ばかりを考えてやってみたので、無理があるのは承知の上。

働いたら負けかな


これはテレビで報じられてその後もイメージがそのまま強く定着した「働いたら負けだと思ってる」タイプのニートの場合を考えたもの。行動範囲は”常識”で測ると狭いのだけど、動きたい範囲で動けてるという自負心が強いのでそこそこ”広い”、就職義務感はほぼ無し、「働いてる人にくらべ自分は勝ってる」と思うので、心理的圧迫感も無しで、このような平面の縦長長方形になる。

ひきこもりで、就職義務感が強い


これは、ひきこもりで尚且つ「仕事に就かねば」と強迫的に考えているが心理的に怖くて行動に結びつかない、部屋で悶々としているタイプ。部屋にひきこもっているので行動範囲は部屋だけ、強迫的に就職義務を抱いている、親に「毎日寝てばかり……働け!」と言われて世間の目も気になり悪循環、心理的圧迫感も満点ということで、底面が塗りつぶされるような平面になる。

ひきこもりで、就職義務感が弱い


これは、ひきこもりで仕事にもつきたくない、仕事にはつけるような自分じゃない、と考えて部屋にひきこもっているタイプ。「人は仕事につかねばならない」という思い込みと就職義務感が強いための裏返しとなって「仕事なんかしたくない」という思いになる、という意味で、就職義務感が弱いが満点、部屋にひきこもっているから行動範囲も弱いで満点、心理的圧迫感も満点で箱そのものになってしまう。

自分の場合


そしてこれは僕の場合である。行動範囲は「ひきこもり」とは断言できるほど部屋にこもっているわけでもなく、しかし普通の人のように出かけたいときに出かけられるわけでもないので狭い方。就業義務感は「いずれ仕事には就かねばならない」とは思いつつも、「なんとかひきこもりのままで過ごせるすべは無いかなぁ」とも考えているので、弱めにした。そして心理的圧迫感は悩んだのだけど、やはり余裕があるとは言い切れず、連日の「米びつ騒ぎ」でパニックになったりしたことetcから、強いのではないかとし、中間よりは強めにした。

こんな風に、ひきこもりもニートも全部地続きの、連続性のあるものなんだろう、と考えた。

ちなみに、「社会人として働いていて人生も楽しく余裕があって幸せ」という状態が毎日続けられている人なら、こんな感じになるかと思う。就職義務感は、すでに就職しているからないのだが、「かつては」ということ、あるいは転職するならということを考えた上でこの位置である。

働いていて余裕があって向上心があって幸せな人



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