塵も積もればヒキコモリ@ひきこもりブログ

幼稚園から20歳での通信高校卒業までの簡易まとめ

■幼稚園

登園時に号泣。
いじめられる。
「今日幼稚園休みじゃないの?」と母に訊ねる。

☆幼稚園行きたくない、と言えたらよかった。

■小学校一年生〜二年生

体格のでかい奴にいじめられる。
ドッジボールに恐怖を覚える。

☆ドッジボールが怖いと言えたらよかった。

■小学校三年生〜四年生

クラスの中でも権力のある女子にばい菌扱いのいじめを受ける。
他の女子にも一緒にいじめられた。
どんどん自信を無くしていく。
頭の悪さ、要領の悪さも自覚していく。
このあたりから中三まで男らしくないことでからかわれ続ける、また差別を受け始める。
ピアノを習っていたが、まったく練習をしなかった。ピアノ教室へ行っても一言もしゃべらず、先生が質問をしてきても言葉を発しなかった。

☆いじめられてることを親に告白するべきだった。

■小学校五年生〜六年生。

登校拒否を始める。
体育できない=嫌われるという図式が確立していた。

■中学校一年生〜二年生

頭の悪さや体育の出来なさ、社交性のなさやメタ認知の弱さ(?)から嫌われ孤立する。
吹奏楽部に入る。フルートをやりたかったが「男の子だから」と顧問に言われ仕方なくトランペットを選ぶ。

☆フルートを選ぶ、あるいは自分にあった部活を作るという発想ができたらよかった。

■中学校三年生

それまでと同様の嫌われと孤立に加え、幼稚園の時にいじめられた奴から目をつけられ日々ねちっこく言われる。
まったく勉強していなかったこともあって、進路を考えることができなかった。
結局流れでトランペットで音楽学校に進むことに。
音楽以外の試験勉強は受験日の直前までまったくやっていなかった。

☆音楽学校に行くべきではなかった、もっと進路について調べるべきだった

■高校一年生

まったく知らない人だらけの環境におかれたことでものすごくしゃべり交流的になったが、だんだんクラスメイトとの関係がぎくしゃくしていくような感じを受ける。
ピアノもトランペットも自宅であんまり練習をしない。
学校のトランペット講師が言う奏法の意味がわからず、「おめーバカじゃねーの!?」等ののしられ(もっともこの講師は誰にでもそうだった)思考停止してしまいそうになり固まる。
テストで赤点を取る。まったく勉強もしていなかった。
二学期から体育でバスケが始まることになり、登校拒否を始める。すでに脳裏には学校をやめることがよぎっていた。
休学。
この頃からカウンセリングを受けさせられる。母と同席してカウンセラーに話すため、嘘をついた。「心がもやもやしていて」等当たり障りのないことをいって恥ずかしかった。本当のことは何も言えなかった。

☆親に留年するよりも体育がどうしても弊害だ、やる気がないといい、さっさと退学すればよかった。

■高校一年生、二度目

留年したがもう鼻からやめるつもりだった。
親に無駄な金を出させてしまった、と少しだけ思っていた。
一学期早々登校拒否を始めた。もうやめるのはこの方法しかないと思った。
やめることになって最後に学校に行き最初の一年生のときの子らに告げると「努力が足りない」等言われた。
カウンセリングでフリースクールのようなところをすすめられるが一切拒絶、大検をすすめられる。

☆フリースクールに行っておけばよかった。

■17歳の年の秋から冬

牧師の紹介によって、流れでアルバイトをすることになり3ヶ月アルバイトをした。
ほぼ毎朝腹痛になり大変だった。
仕事がうまくできず、よくミスをし、何度やってみても最後まで出来なかった作業が2つあった。台車のようなものを動かすのがどうしてもうまく出来ず、ものすごく情けなく恥ずかしくみじめになった。

■17歳の年の冬

大検を受けるということで(僕はやる気は鼻からなかった)家庭教師に3ヶ月ほどついていたが、課せられる宿題にまったくやる気がでない。家庭教師がきたときはすべて世間話だけで何とかやり通した。勉強を一切したくなかった。

■18歳の春、高校一年生、三度目〜高校二年生

家庭教師と世間話ももう限界と感じたので、通信高校にいくことにした。
月に2〜4回程度の登校、やることも教科書を丸写しするようなレポートだけだったので楽だった。
登校日はほぼ毎回必ず、学校につく前の駅で腹痛になった。一度も漏らさなかったのは奇跡としか思えない。
体育もあったが通信高校だったためあらゆる年代&性質の人がいたため、運動音痴は恥ずかしかったがさほど目立つことではなかった。
「進路相談、就職相談」についての情報が目に耳についたが、他人事のように感じていた。幼少期から続いている「次の約束を一切作らず、ただもう休息したいだけ」という思いがこの頃から言語化されて意識されはじめる。
友達(が一応できた)はみなアルバイトと通信高校を両立しており、僕は「どうしてそんな器用なことができるんだろう」と感じていた。
親から「運転免許を取れ」といわれるが、交通事故の夢を本当によく見るのと、父が車関係の仕事をしていたことで車にマイナスイメージがあり、拒絶に近い状態で運転免許は取らなかった。心理的にいろいろあって取れなかった。

☆進路相談、就職相談をこまめにするべきだった

■高校三年生

進路も就職も何も考えていなかった。ただ高校が終わったらもうただ休息したかった。が、母経由で父が何もしなければ追い出すというようなことを言っていたと聞き、仕方なくあるカルチャースクールへ1年間通うことにする。

☆ここでもきちんと進路を考えるべきだった


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「家族なんだから!」=「お父さん基準に従え!」

昔から僕は家族が口をつけたコップ、食べ物は口にすることができなかった。ある年齢までは母のものだけは大丈夫だったがついに母のものもだめになり、挙句には自分の口まで時によってはいやになることもある。

中学生ぐらいの時だったろうか、やはり父か兄が口にしたものをすすめられて、僕は拒絶した。すると「家族なんだから!!」と父は言う。僕は「一部の他人なら(自分が清潔だと思えてる人のなら)平気」というと父は「そんなのおかしい!変!家族なんだから家族のは平気じゃなきゃだめ!!」と言った。

その割には、かつて僕がホラー映画を見ていると「人間としてそんな映画を見ていちゃだめだ!」といった。「家族だから家族がホラー映画を好きなのを受け入れよう」という理論はここではない。「人間としてだめ」という。

先の口飲みなどについては、僕が過敏すぎるというよりも父がまったくもってそういうことには無神経だという部分がある。僕は父の基準で行けば多くの日本人が過剰なまでの神経質人間になってしまうと思っている。

父は「家族なんだから」「人間として」「社会人・大人なんだから」等をよく使い分ける。これらはほとんどが「お父さんの基準に合わせろ」に置き換えられる。なぜなら、父以外では母と兄と僕が納得していないことも多いからだ。

父は多分僕に対して「何でも相談にのってやりたい」と思っていることだろう。親というのはそういうもんだろうし、割合いろいろ放っておいてくれるところを見ているとそう思える。一番最後に僕があまりに物を言わないがための言い合いになったようなとき、父は顔を真っ赤にして激昂して「毅、そのぐらいはちゃんと説明しろ!」と言った。この言葉の裏には、普段父が「毅は何も言わない、何も説明してくれない」と思っている気持ちがある。だから本当は不本意ながら、僕からはなるべく刺激的なことになりそうなことは何も聞き出さないというスタンスを持っているようだ(一度カウンセリングのようなものを受けたとき、父はカウンセラーから「30歳ぐらいまではゆっくりですね」といわれたことも影響しているかもしれない。父は権威に弱いからだ)。

そんな父の「なんでも相談しろ」という気持ちがあったとしよう。そこで僕は「あなたたち両親が変で下品で育ちが悪く頭も悪くバカで下劣で、その結果僕はこうなってしまった、それで悩んでいる、あなたたちに毎日接触しなければいけないこの生活が苦しい」といったとする。そんな悩みは父からすれば先の「家族なんだから!」の一喝で終わってしまう。そこに僕の悩みが集約されているということも考えもつかない。だから僕は結局悩みの中へ戻ってしまう。そうして時間が流れる。父は僕を心配する。父に僕は家族がいやだと話す。家族なんだから!一喝される。僕は悩みの中へ戻る……。

僕が「家族だからこそいやなことがあり、それは父が『家族同士だから平気』としていることであり、価値観の違いである」という風に感じている、あるいはそうとしか生きられない部分を、父が認めてくれない限りは、僕は家族には心身ともに接近できないのだ。そこを認めてくれたうえで、家族同士だからといってできないことはできない、そこのラインを守ってくれて初めて僕は家族に接近することができる。

父はそのラインを堂々越えて「どうした?どうした?」とずかずかと入ってくる人である。死ななきゃ治らないかもしれない。あるいは死んでも僕の中に、ずかずか入り込んだ足跡をふんだんに残して消さないままになり、僕が死なない限りは治ることなどないのかもしれない。


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4年ぶりに電車に乗ってオフ会に行くかもしれない

ある発達障害の人たちが集まるオフ会が企画されていて、自分のところから電車一本で行けるところでやるみたいなので、主催者に参加する旨メッセージしてみた。

これで参加するとなると、4年ぶり、足掛け5年ぶりに電車に乗って東京に行くことになる。

どうなるだろう。数年後ふりかえったときに、このオフを「何かへの弾み」「〜のキッカケになった」と感じられるような出来事になればいいのだけど、新たなトラウマを作り出す可能性もある。

読書をたくさんするようになってからの、人との交流でもある。数年前までとは感覚がいろいろ違うかもしれない。

「集まりに出かけてくる」と親に言って出かけることも数年ぶりのことになる。どういう反応をされるだろう。

不安と期待が入り混じるとは、こういう感じだったっけ。


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ひきこもり相談機関に発達障害は相談できない?

東京都ひきこもりサポートネットなるサイトを見つけた。というより前から知ってたのだけど、登録とかがあるので、引きこもり系サイトとしては弾いていた。

それでも「やっぱり発達障害があっての上でひきこもってるってなんとかして訴えるような形にしなきゃだめだ」(わかりづらい)と思って登録しようと思った。

しかし登録画面に出ると一番最初に出てきた規約のようなものに「病気や医療関係のことは一切相談できません」とあった。

この時点でもうだめなのかと思った。

発達障害とひきこもりの関係という認知は今後広まる可能性はあるんだろうか?あるいはひきこもり問題をなんとかしようとしている人達にそういう発想・視点はあるんだろうか?ないような気がする。ひきこもり対策として最近目にしたのは専門家だかなんだかが自宅訪問をするというのだけど多分そんな自宅訪問があっても「どうして外出しないの、外出しましょう」とかそういうことだけに集中するのだと思う。

とりあえず外出すればまず成功、アルバイト始めたらよし解決、ということではないのになぁ、と思う。神経症があるのかもしれない、発達障害があるのかもしれない、本人も家族も気づいてないトラウマがあるのかもしれない、etc……そこを無視してひきこもり解決=外に出ることだけではなぁ。

想像上の他人はこういう。
「いいんだよ!とにかく外に出ろ!何がなんでも出ろ!イヤだとかつらいとか知るか!おまえが働かなきゃみんな迷惑なんだよ!!心?傷ついた??知るか!!そんなもんかまってる暇あったら働け!絶対引きこもるな!!おまえの気持ちなんか知るか!いーから働け!!働けばいいんだよ!!人間関係がうまくいかない!?知るか!!勝手に悩んでろ!!ただし引きこもるなよ!?辛さに苦しめ!!みんな同じなんだよ!!!お前だけ発達障害だのウツだの言って怠けさせてたまるか!!」

発達障害相談の方をあたれば、ひきこもり問題も含有している機関とかはあるんだろうか。でも発達障害の相談機関みたいなものもいくつか検索してみたけれど、ひきこもりを前提にしているところは今のところ見つからない。埼玉県は川越にあるのだけど、電車からバスに乗り換えていかなければならないところにある。バスは苦手なので、僕はそこには行けない……。


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アスペルガー症候群の「嗅覚の強さ」について、自分の場合

アスペルガー症候群の特性で「五感が強い」というものがある。それに関して書く。

僕は家族の中ではどうやらもっとも嗅覚が強いらしい。父も母も兄も平気だが、僕だけは気づく臭いというのがたまにある。

数年前の夏、エアコンで冷房をつけると、途端にすさまじい悪臭がした。生臭い生の秋刀魚のような臭い、それにカビっぽい臭いであった。冷房をとめてもその臭いは消えず、何時まで経っても臭いが残り続けていた。僕はたまらずそこでは食事ができず、二つ隣の和室で食事をすることになった。父と母は何もわからず、父だけがそのわからない(父には嗅ぎ取れない)臭いに気が気でなかったらしい(母伝)。

兄の一人暮らしの部屋に父と母がたまに掃除に行く。兄はまったく掃除やゴミ捨てができず、数ヶ月もするとニュース番組で特集されるようなゴミ屋敷直前にまでなるという。それで定期的に掃除に行くのだが、以前母が兄の部屋からリセッシュを持ってきた(それに関して僕は、人がいない時に親だからって勝手に持ち出すとはなんと非常識な……と思い、それを起点として自分の過去のトラウマ、すなわち父に色々捨てられた過去を思い出し辛くなっていた)。そうして台所続きのダイニングのカーテンにリセッシュをふきかけた。母は「わ〜いい匂い〜」といったが、僕には強烈な香りで、そのまま食事をしたが、なんとも気分の悪い食事になった。香りというのはもっとも感情を刺激するようなものらしく、僕はこの香りに怒りを覚え、リセッシュの中の液体を勝手に外に全部捨ててしまった。後で「別に捨てなくてもよかったな」と思ったし母からも「捨てるとは思わなかった、びっくりした」といわれたが、そのときはなんとしても捨てたかった。

最近のこと。台所の食器洗浄乾燥器、冷蔵庫、ゴミ箱の周辺あたりから雑巾のような臭いがした。そのときは父と母がいたため、「雑巾みたいな臭いがする」といったが、父と母はわからない。僕はどうやらシンク内の三角コーナーに入ってる見かけない布巾のようなものが臭いと断定し、それを捨てていいか許可をもらい、捨てることにした。この三角コーナー自体が臭っている可能性もあるため、僕はそれを洗った。臭いはなんとなく消えた。僕が食器を手で洗うときは最後にこの三角コーナーも洗うのだが、母は洗うことはせず、たまたまその中に食材が入ってしまい腐ってにおうということもあるのだが、父と母はそれもわからない。そして翌日、父と母は「多分臭いがしたのは、食器洗浄器の中のゴミだったんだよ」と言った。でも僕がかぎつけたのはその臭いではなかったし、実際布巾と三角コーナーを洗ったら臭いは消えたのだが、目の前で僕がにおいの元を断ったのを見ていたにもかかわらず、臭いの元は違ったと否定されて、なんだか気分が害された。

夏だったろうか、炊飯器で白米を炊き、保温を切ってそのままにしておいた。翌日か三日ぐらいしただろうか、何の気なしによそって食べたところ、強烈な臭いと味がした。普通考えればわかりそうなものだが、保温を切ってこのぐらい日数が経った米を食べるというのは、たまたまそれがはじめてだった。なんといえばいいか、米の中の水分がすべて濁って淀んだような味、猫のおしっこをひっかけたような臭い、そんな味だった。僕は「なんだこりゃ……」と思いつつ食べてみたが、結局気持ち悪くなり嘔吐した。しかしその直前、父はそのご飯を食べていた。父はまったくわからなかったという。
またうちではご飯を炊いたら冷凍しておくということを数年前からやっているのだが、冷凍でもあまりに日数が経つとほのかにあの淀んだ濁った味と臭いがかすかにしてくるようになる。一瞬ではわからないが、米を口に含み10回ほど噛むと臭いが鼻の方へくる。臭いを消せば平気かとおもってニンニクやショウガなどを多めにいれてチャーハンにしてみたが、やはりダメだった。結局後で吐き出してしまった。この米を父と母が食べたかどうかは知らないが、夏の日のあの強烈な米を食べても平気だった父が、それよりは程度の弱い臭いのする米を食べたとて何に気づくということはなさそうだ。

冷凍保存ということで、鮭の切り身や油揚げを冷凍庫に保存しておくこともあるのだが、これを解凍して食べた時に「冷凍庫の臭いと味がものすごくする」というのは僕だけである。父も母もわからない。母が一度だけ「この間〜(失念)を解凍して食べたら冷凍庫の味がした、これがそうかって思った」と言ったが、特別困ることなく食べたそうだ。

小学校二年生か三年生の頃だろうか、学校でワックスがけをした。ぞうきんに毒々しいオレンジ色のべっとりとしたワックスを乗せてもらい、それを床にふきつける。当時は艶出しの意味などわからなかったが、あのワックスの形状が面白かった。しかしその後が大変だった。体調や気分がすぐれないとき、また特に給食の時間にはワックスの臭いが強烈で強烈でたまらない。僕は小学校の前半までは過剰なまでに食が細かったのだが、この初めてのワックスの時はまったくもって受け付けなったように思う。教室に入るなり息をとめてすぐにベランダに出て息継ぎをしたこともあった。それからどうなったかはよく覚えていないが、なんだかんだで慣れたのだったかなぁ。ワックスのせいか緊張のせいかわからないが学校では何も食べられないものの、家に帰ると反動でお腹が減りラーメンを2個ぐらいぺろりと食べていた。そして後に肉割れ(妊娠線)ができるほど太ってしまう(ただし太ったのは心理的なことも影響していると考えられる)

思い出せる限りで自分の嗅覚の強さに関するエピソードで細かく書けるものは以上。


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僕がキリスト教に不信感を抱き離れるまでの流れのまとめ

母は学生時代からクリスチャンであった。その当時知り合った女性の牧師さんとはその牧師さんが亡くなるまでずっと付き合いがあった。

そのため兄も僕も生まれる前からキリスト教を信じさせられることはすでに決まっていた。母の頭に「宗教は個人の自由、人権問題」などという発想はなかったろう。父は反対したのだろうか。それは知らない。

僕は気付いたら母に毎週教会に連れていかれる状態だった。しかし僕の場合は教会に行ってもみんなと一緒になって牧師さんの話を訊く訳ではなく、子ども部屋のような場所で一人で遊んだり、ピアノを習うようになって以後(小学生時)は礼拝とは別の部屋に置いてあったエレクトーンを弾いて遊んだりしていた。時々母以外の人が「ちょっとエレクトーンの音をおさえてくれるかな」というようなことを注意しにくることがあり、そこでエレクトーンをやめたり……というような状態だった。

母は学生時代からの付き合いであったし、母は心を許した人には兄弟姉妹がごとくどこまでも親密に関わろうとするので、その牧師はすでに母にとっての別の母のような状態であった(僕にはそう見えた)。そして僕にとっては本当の祖母ほどではないが、まあ祖母のような存在であった。僕もその牧師さんから可愛がられるようにして、他の子どもよりも特別に扱われていたように思う。他の子どもよりも丁寧に扱われていた気がする。それは僕が多分他の子どもよりも繊細だったり神経質だったからだと思う。

僕はただ漠然と神を信じ、そして教会に行くだけであった。ただ信仰というよりは、「神様が見てるから悪いことをしちゃいけない、嘘をついちゃいけない」という気持ちだったろうか。「お天道様はすべてお見通し」的なものだったかもしれない。

普通の子供も「神様が見てるんだからね!」としつけされることはあるらしい。しかしほとんどの子供は怒られた時は泣くなり怯えるなりするだろうがそのうちに忘れてしまうだろう。だが僕はキリスト教という確固たる神の形とともにそういうしつけをされてきた。そう、信仰を覚えさせられたというより、しつけの形になっていたと思う(母はそうは思っていなかったろう)。

そういったことから、僕は処世術を鍛えることができなくなったように思う。その性質からか母には「毅は優し過ぎる」「毅は純粋」と評され、それは今でも言われる。僕はそう言われるたび「子供の頃にキリスト教を押しつけられていなかったら違ったのだろうか」と感じることがよくあった。だが繊細とか神経質とかいった部分が、先天的な素質だったとしたら、やはり同じことだったのかもしれない。わからない。

中学高校時代では僕も日曜日に用事があることもあり、教会に行く頻度は減った。時期はいつだったか忘れたが、教会も場所が変わって子供部屋などもなく、あったとしても僕もそこで遊んでる訳にもいかず、教会に行く時はもはや大人の人達と一緒に席に座って牧師の説教を訊き聖歌を歌い……という状態だった。だが僕は、他の人達のように祈祷はしなくてよかった。「毅ちゃん、お祈りできるかな?」と赤子にたずねるように牧師に言われて、僕は小刻みに頭をふる。それで僕はお祈りをしないこともあったし、牧師か母が言う祈りの言葉をおうむ返しに繰り返し、僕が祈ったことにすることもあった。

僕は今でもお祈りができない。「困った時の神頼み」的な形の祈りは出来るが、「主よ、御名をあがめます」みたいな言葉からはじまり「このお祈りを〜〜で、捧げます、アーメン」でくくるような形の、一つの文章の形式になる祈りが出来なかった。自分の神頼み的な自分と神とのだけのつながりの祈りの方法は間違っているもの、恥ずかしいものという感じがどこかであった(そう言語として感じていた訳ではない)。みんなが神によってつながっている、それを包含している祈りで、きちっとした文章で祈らなければいけないと感じて思いこんでいた。何しろ祈りに限らず、きちっとした報告や発表、挨拶のようなものは僕はとにかくアドリブで組みたてて言うということが出来なかった(僕は発達障害だったのだろうかと思う根拠の一つ)。

僕はクリスチャンとして本来求められるべきものを全く避けて、あるいはしないでいい特権を得ながら、教会に連れていかれていたのだ。そしてそんな僕を母と牧師はクリスチャンだといっていた。牧師は「信じていればいいの、信じていれば……」と繰り返した。もちろん脅迫のような言い方ではなく、"おばあちゃん”にありがちな慈愛(?)に満ちたような言い方である。そんな人にそう言われれば、ああそうか、信じてればいいんだな、と思ってしまう。

母の方の牧師さんは体力的限界を感じ、いつしか牧師を引退(?)し教会を解散した。みなそれぞれ違う教会に行こうということであった。僕はその頃確か通信高校卒業かアルバイトをしていた時期だったように思う。

それからしばらくして、今までキリスト教など関心も寄せていそうにない父が猛烈にキリスト教にのめりこんでいった。地元の大人数の教会に父と母は通うようになっていた。ある日、二人は僕に「教会にいってみない?」と言ってきた。そしてアルバイトでへとへとになりながらも「僕が教会行くぐらいでおとん(父)が嬉しいんなら……」という人生初(?)の親孝行心から行くようになった。

が、そこは以前とは全く違う教会だった。いや、教会なんてどれもあんなものかもしれないが、僕の世界にとって全く居心地の悪い教会であった。僕は一人前の一人の大人のクリスチャンとして期待されている。

行き始めた最初のころ、青年部(というんだっけ)のアウトドア企画を取しきっていた体格のいいいかにも体育会系っぽい人に元気よく話しかけられ「キャンプとかあるんだけど、行くでしょ!?車運転してくれる?」と言われる。前の教会であればこんなアクティブなことは他の人達がやっていて、僕は蚊帳の外の人間であった。僕はきょとんとして「免許持ってません……」と言った。その後どう言う風になったかはあんまり覚えてないが「免許持ってないの?何歳?」というようなことを言われたような。

そうこうしてるうちに、僕はその教会の正会員になった。その日のうちに礼拝の終わったその午後、我が家族のために愛餐会が開かれた。要は記念パーティーのようなもの。そこでキリスト教を絡めて自己紹介をしろという。出来ない!!絶対無理だ!!僕は目に涙がたまってしまう。でも回りの誰一人そんなことはわかっていない。父や母を通して牧師に自己紹介は無理と伝わったが、牧師側からは「一言でもいいので」ということだったらしい。しかし僕は絶対に出来ないと思った。さすがに母も「やっぱ無理か」と思ったらしく、なんとか僕は自己紹介しなくてよくなった。父が適当にまとめた。

「この教会では僕はもう特別扱いされない、積極的に聖書やキリスト教に関わっていく態度が期待されているしそれが当然なんだ」と感じ、僕の気持ちは教会から一気に引いた。

そのうちに我が家は全員「あかし」をしなければならないことになった。「あかし」というのは、ごく簡単にいえば「私とキリスト教」というような主題で信仰を語るというものである。これを訊いた瞬間、何を言ってるんだ、出来る訳がないじゃないか、と思った。やっぱりこの教会では何もわかってもらえない、僕の性質は一切無視される、と思った(同時に、前の教会はぬるま湯だったのだなと思ったが)。父、母、兄、僕、という順番であかしをすることになったそうだが、僕は断固拒否。無理だと親に伝え、牧師にもそれが伝わった。それから牧師が家にきて僕にいくつか質問をして答えて帰ったことがあり、結果としては「やれるタイミングがきたらということで。こちらは待っているので」ということになったらしい。僕はほっとしたが、結局僕は期待して待たれていると思うと、ますます教会から気持ちが引いていった。

次第に父は「行ってみないか」という態度から「行かなければだめだろ!!」という態度になってきた。始め僕も親孝行心で行っていたが、父にこう調子に乗られると思いきり憎悪の気持ちが湧いてくる。父はクリスチャンになったとて何も変わっていないという実感もあり、キリスト教が父を変えることは不可能であり、昔からの「偽善者性質」がクリスチャンになったことでなおのこと強まった「超偽善者」になっただけ、という気持ちが強くなった。不信はますます強くなる。

第一、日曜日にアルバイトを休んでまで教会にいっているというのが、どうもアルバイト先でギクシャクしてしまう。毎週アルバイトのシフトでとてつもなく忙しい日曜日を休みにしてくれと頼むのは計り知れない精神的障害だった。

さらに母は「私がクリスチャン生活を何十年送ってると思ってる、お父さんにそうやすやすわかる訳がない」といっていたが、父はそのガリ勉(?)体質からあっというまに他の誰よりもキリスト教のすべてを吸収しはじめた。こうなれば母も応援するものだろうと思っていたが、母はそこまで父の成長ぶりを心底嬉しがってはいないようだ(父の性質・性格はまるで変わっていないからかもしれない)。母はクリスチャンということで誰にもない(と本人は思っている)アイデンティティを保っていたと思われる。それをあっという間に父が越したことを、母は悔しく感じているのではないかと思っている。事実最近ではあるが、我が家の玄関先で知り合いの水道屋と会話をしていたのを訊いてしまったのだが「旦那はなんか今キリスト教にすごくのめりこんでる。……さあ何か感じるところでもあったんじゃないの」などと話していた。

母はウツ病だ。そして万年ダイエット依存である。どうして痩せないんだろう、どうしても食っちゃう、と下品なブタのようにクチャクチャと音を立ててパンを食べる。神様に祈れば?という気持ちは当然僕には募る。時に母が僕の生活態度を注意してくることがあり、僕が「そんならあんたはどうなんだ、だらしない生活をして!」というと「お母さんは鬱病だもの〜」という。僕は「(神に祈ればいいんじゃないのか??)」と考える。母はウツ病の時期が過ぎると操状態になり遊び歩く。しばらくするとまたウツ病になる。病気だから仕方ないのかもしれない、だが僕にはウツが抜けた時期に、色々準備をしておくべきなのではないかと考えてるし、また実際にそういうこともあった。だが彼女はそんな準備などは一切しない。これが長年キリスト教を信じてきた結果なのか??

らちがあかない。僕は一切キリスト教ならびに教会には関わりたくなくなった。

■追記

上記の話とは関係ないけど、アスペルガー関連のブログを検索して当事者のものを見てみると、みんなどれもこれも文章が長いことに気づいた。単純に特性なんだね、と片付けることはできないけど、そういうものかなーと関連付けてもみたくなる。



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人からの指示や言葉の意味を汲み取れない僕の脳味噌

アスペルガーの特徴の「言葉や会話、曖昧な指示に対する弱さ」みたいなものに関して、僕の思い当たることを書く。

以前MSNのメッセンジャーを多用していたときのこと。ネットだけのその友達と会話をしていて、ある立ち入った話になった。覚えてはいないのだけど、それについて僕は自分なりの考え、理論を書き始めた。細切れに言葉を書いては送信していた。どういうことかというとまず最初に「思うんだけど」と書いて送信する。「それってつまり」と書いて送信する。こんな風に細切れに、自分の中に表象してくる言葉をどんどん送信していく。相手はふむ、だの、うん、だの書いて送信してくる。すると僕はそのうちに「…あれ?」「なんだっけな」「何を言いたかったのかわかんなくなっちゃった」となってしまい、相手からは「おい!」と返ってくる。

10代の頃はよく文通をしていた。1日が手紙を書くので終わるほどだった。しかし1通の手紙を書くのにやたら時間を食う。数時間かかる。なぜなら、まずワープロで文章を打つ。それからその文章をチェックし、手書きで書き始める。この二つの作業で数時間かかり、時間の割り当てはワープロ4の手書き6ぐらいだったろうか。しかし手書きをしていると途中でつかれてきてしまい、結局ワープロで打った文章もある程度省略したり削除したりして短く終えてしまう。
なぜワープロで打ってから手書きにするのか、最初から手書きにしないのかというと、手書きだと全くもって最初と最後がつながらない文章に始終なりがちだからである。文章を書きはじめ、「。」で結ぶまでの間に、最初と最後で言いたいことが変わってしまっていたりする。また全然別の話になってしまったりする。つまり、書こうとしてることがどんどん脱線してしまう。

こういった、話し始めてみたものの途中で自分で言いたかったこと、何を言おうとしているのかわからなくなって脱線、あるいは話が止まってしまうことがよくある。

また自分からの発信に限らず、他の人の話や、あるいは本や文章などでもそういう部分がある。

ネットで知り合った人と実際会ってみたり、あるいは複数の人でのオフに参加してみたりしても、途中で話がわからなくなる。あるいは相手の声が聞こえにくくなることがよくある。

アルバイトをしていた時のこと。2代目店長と女性バイトに軋轢が生じ、全体的にギスギスしていた時に、僕はそのことについて一連の流れを別のバイトの子らからきかされた。一応わかったつもりでいた。そしてある日、みんなで休憩に入ろうというときに、みんながどうやって休憩に入ったらいいかを相談していた。僕はなんと言ったか覚えていないが、誰ソレが先に入ったらいいんじゃない、というようなことをいったするとH君が「いや、だからそうじゃなくてさー!!」と僕に向かってうざったそうに言い放った。「なんでわからないかなー、状況が!」というニュアンスであった。僕は一応そう言われてああそうか、店長とギスギスしてる人とが一緒に休憩に入れないようにしようっていう方向なのか、と思ったけど、みんなが最初から考えていた休憩の入り方を決めるにあたっての根拠は最初はわかることができなかった。

アルバイト先に3代目店長が異動して来てしばらくし、ある日のこと。その日はやや忙しく、店長もなかなか休憩に入れないため、店長が休憩の入り方をいつもと変えて指示した。僕は頭をかしげ「何を言ってるのかがわからない……」とハッキリと独り言で言った。するとMさんというバイトの女性(年下)が「だからなんであんたはわからないの!!」と言ってきた。眉間にしわを寄せ、脱力する笑いを含みながら。どうしてもわからなかったので、とりあえず指示されるままに僕は休憩に入ったのだが、簡単に言うと「店長はとりあえず抜いて考える。バイト達だけでそれぞれ誰と誰が先か後に休憩に入るかを決める。店長はタイミングを見てその間に入る」ということだった。実際に休憩の形としてやってみて「ああ、そういうことか」とわかった。

通信高校時代のこと。体育の授業で、サッカーをやることにした。先生は「二人一組で〜〜〜っていう練習をやります」と言う指示。僕はというと「????」という状態。確かその時、僕のためにもう一度説明してくれたような気がするが、僕は2回訊いてもわからなくて、とりあえずみんな始めることになった。そこで僕と組になった多分年下のわりと幼い雰囲気の男の子に「ね、どういうこと?どうやればいいの?」と訊ねるとその子はオーバーに「だめだこりゃ(笑)」といってその場にへたれるように笑いながら座り込んだ。ちょっとその仕草が面白かったので笑ってしまったが、この相手が不良っぽい人で高圧的だったら僕はびびってしまってしょうがなかったように思う。それで実際サッカーの練習が始まって、回りの人のやってることを見まわしてみて始めてやることが理解できた。「ああ、そういうことか」と。

中学の吹奏楽部でのこと。コンクールだったか市の演奏会だったか忘れたが、とにかく外で演奏することになった。数少ない男子は大きい楽器の運搬係なのだが、顧問の先生が指示する「この場合はこっちにきてください、あの場合だったらあっちにいってください、そうでもなかったらそういうやり方で行きましょう」という内容がさっぱりわからない。確か紙に図で書いてもらったような気もするが、まるで頭に入らなかった。結局他の子も一緒だったので、その子らがわかっていたから後についていったから一応おさまったけれど、僕一人や後輩を引き連れてということだったら全くもって何も出来なかった、あるいは迷子になって迷惑をかけただろうと思う。

ところで、どうしてこういう風にブログは長々と書けるのかと言う疑問が出てくるが、それはアスペルガーの特徴で言われる「冗長な言い回し、くどくどとした喋り」というものが発揮(?)されているのかもしれない。別の方面から考えれば、会話や話を訊くのとは違い、ワープロソフトでいちいち点検しながら書く(打つ)ため、うまく行くのかもしれない。

なお僕が自分で発達障害を疑うようになった経緯は、最初は二年前に読書を始めたものの全くもって読み進めることができなかったことから、インターネットの掲示板で相談してみたところ、学習障害/LDではないか、と言われたところから始まり、次第にひきこもりと絡めてつながって、発達障害、社会不安障害、アスペルガー症候群に至った。

病院での診断や相談機関への相談を躊躇っている部分があるが、これは主に親への相談、病院・機関への相談もすべて言葉と会話によるもので成り立っているため、自分の伝えたいことを伝えきる自信がないことなどから誤った診断とかそういうことにつながるのではないかという心配もある。

こんなことを書いていてふと、「才能があったら小説家に向いてるのかもなぁ」などと淡い期待を抱いた。そう言えば小説の書き方という本も買ったままだから、そろそろ読んでみようかなぁ。



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絵本「魔女たちのあさ」が示していた僕の姿

ラカンはこう読め!」という本を読んでいた。フランスのジャック・ラカンという精神分析家の解説入門書で、ハッキリ言ってなにが書いてあるのかさっぱりわからないのだけど、いつのまにかラカンが理由もなく好きになっていた。「FOR BEGINNERS イラスト版 ラカン」という本があって、この本の豊富なイラストの感じに引かれたのが最初だった。ラカン精神分析そのものより、その本のイラストから入った訳だ。僕はこういうところがよくある。フランス語もそのフランス語の響きが好きだというところから入った。

書きたかった話からがずれた。その「ラカンはこう読め!」を読んでいる最中、ふっ、とあることが思い浮かんだ。僕は本を読んでいるとこうして不意になんの関係もないこと、あるいはその本の文章に関係あることが頭に浮かぶことがよくある。僕は自分でうまれて初めて購入した絵本のことを思った。なんでその絵本を選んだのだろう?というような疑問が頭に浮かんだ。そして「あっ」と思った。その「あっ」とは――

20〜21歳の時から絵本に興味を持ちはじめた(その後一、二年ぐらいで興味は衰退したが)。そして人生で生まれて初めて自分で選んで買った最初の絵本は「魔女たちのあさ(A WOGGLE OF WITHES)」というものだった。アリス館というところか出た絵本で、作者はエイドリアン・アダムズ/Adrienne Adamsという人、訳は奥田継夫という人。なぜこの絵本を選んだのか?

小学生時代、僕はホラーマンガが大好きだった。立風書房というところから出ていたレモンコミックスというホラーマンガのシリーズ、またひばり書房というところから出ていたホラーマンガにはまっていた。それからしばらくして10代の後半に入ったとき、古賀新一の「エコエコアザラク」が猛烈に読みたくなり、全部注文して取り揃えた。今で言う「大人買い」で一気に買った。この辺から、僕は魔女とか魔術とか、そういったものにひかれるようになっていった。どうやらこういうものは「人文」というジャンルらしいとは知っていたが、本屋で見かけるそれらの書棚にはなんだか難しそうな本ばかりだった。それでもその頃に買った「悪魔の事典」という本は今でも持っている。最近では澁澤龍彦という人を(今更ながら)知り、僕の好きなものが彼によって統合されていることを知った(いや、彼によって統合されたものがその後分析されていって、その端っこを僕はつかんでいただけだ)。

そういう訳で、僕が一番最初に選んだ絵本の理由としては、「魔女が好きだから」というものだったと思う。しかし、今読み返してみるとこんなにも意味が違って見えるものかという気分になっている。

そのことについて詳述するために、この絵本の内容をまず説明する。

夜、月が昇った頃、魔女たちは森の奥でひっそりと目を覚ます。それから魔女たちの食事が始まり、ほうきで空へ翔けていく。空を飛びまわり、月のまわりで踊り疲れて、魔女たちは月に腰をおろす。何をしようか話して、また地球へとほうきで戻りとうもろこし畑へ降り立つ。するとむこうから何者かがやってくる。魔女たちは怯えて隠れるが、それはハロウィンの仮装行列の子供達の姿だった。恐かったね、と言って魔女たちはほうきに乗って去り、また森へ戻っていく。遊びつかれた魔女たちは食事をし、朝になる前にまた眠る……。要は夜のあいだ魔女たちは起きて活動し、朝のこないうちに眠る、という場面を描いたもの。

いまこのストーリーを読み返すと、まさに僕のこと、または昼夜逆転したひきこもりとか、そういう人達のことになるんじゃないか、と感じた。そんなストーリーを僕は当時無自覚に自分で選んでいたのだ!(その頃から昼夜逆転ひきこもりだったけど。)よりにもよって絵本というジャンルに手を出した時、最初に選んだ絵本がこれだというのが何かを象徴しているような、陳腐な言い方だと、運命づけていることを指し示しているようにも思えるような。

でも「単にぐうたらな性分が無意識にそれを選んでただけでしょ」と言う一言で済ませられるような気がしなくもない。しかし、絵本というメディア、画面いっぱいに広がる絵に少ない言葉だけのこの世界に、自分との共通項を嗅ぎ取ったとすれば、僕はなんだかんだで「自分にあったものを見つける直感力」とでも言うようなものが意外と冴えていて自信を持っていいのでは……?とふと思った。

こういうことが、ラカンの本を読んでいて思い立ったと言うのもなんとなく面白いなあと思うけど、ラカンと絡めてまで推測できるほどラカンはまだ知らない。いつか10年後ぐらいに「あのときラカンにはまってたのはこういうことだったのか!!」とまた思うことがあるのだろうか。

さて、この絵本を久し振りに開いたら、その当時か数年後かわからないけど、僕が書いたらしき手書きのが挟まっていた。読んでみたところ最初は覚えがなかったが、2回目を読んだら何となくその時のことが漠然と曖昧にだけど、気持ちとしてよみがえったような気もした。ただやっぱりすごい稚拙だ。

恥ずかしいけれど、ここにそのを記す。この絵本、「魔女たちのあさ」を下敷きにしたで、そのうち「五、」はその内容から思い出したがエディット・ピアフの「愛の賛歌」が下敷きになっている。当時僕はピアフの愛の賛歌のフランス語を一語一語辞書を引きながらフランス語を勉強していたのだ。「七、」と書いたところで終わっている。



一、

透き通るその森の中で
これまた透き通るものがある
人間のあいだで
黒く透き通って
寒く透き通って
濃く透き通って
遠く透き通っている

二、

言葉はいのちがある
その生まれる言葉の
母の
唇が
そこでそうして
生みたがっていたら
誰にも中絶させる力は
母にさえも
ない
言葉の胎児を
先に整形してみても
いのちまでは
縛りつけられない

三、

いらっしゃいませ
当店はたくさんの
料理を用意してございます
アペリティフに蛇の血をどうぞ
こちらがメニューでございます

「猫のしっぽの串焼き」
「トカゲの心臓のソテー」
「からすのくちばしチップス」
「こうもりのシチュー」
「かえるの舌のパスタ」
「マンドラゴラのサラダ」
「イモリの目玉のパン」
「ふくろうの脳ピラフ」
「イモ虫ペーストのスープ」
「毒ぐもスープ」
「子供肉のステーキ」
     ・
     ・
     ・
     ・

四、

楽しくて
仕方ない事は
他人に言わずに
いられない

嬉しくて
たまらない事は
誰かに教えて
しまいたい

だけど誰もそんな事には
眠くて眠くて

喜びは一人でやっておくれ
喜びの相手は
よろこびぬししか
してあげられないんだから

悲しくて死にたい事は
一人で飲んで
しまうもの
逆にはなれないね

五、

あの子があいつを愛しても
月を盗ませなんかしないよ
せいぜい金髪にするがいいさ
月はわたし達のお陽さま
月はわたし達の寄る辺
青空がひっくり返っても
地球が崩れ落ちても
月はわたし達の父
月はわたし達の椅子

六、

こんこんとふるえるからだ
こんこんとおびえるこころ

隠せ隠せ
秋の中
隠れろ隠れろ
秋の中

こんこんとささやく物影
こんこんととんでく月の子

七、


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口喧嘩の上手いアメリカ人のようになりたい

僕は何が一番今必要だろうか。ふと考えた。どんな人間になりたいか?一番真っ先に出てきたのは、洋画などの中で、自分の主張を全く曲げず一貫とした主張で言葉が途切れることなくケンカしつづける外人の姿だった。つまり、自分の言いたいこと、感情、感覚、思考を、きっちり言葉として表現し相手に100%伝えるという能力が欲しい、というところだろうか。

実際、アメリカ(だっけな)と日本の母親が子供に期待するのはという調査結果を何かの本かニュースかで見たけれど、アメリカの場合はコミュニケーション能力が身につくこと、日本の場合は親の言うことを素直にきくこと、だった。

僕は、言いたいことを言えなかったために随分遠回りをしてしまった、あるいは辛い目にあいつづけたという経験が何度もある。

小学校の頃はいじめられていたことを親に言えなかった。
小学校後半から中学、高校では体育がいやだから登校拒否ということが言えなかった。
高校を留年することに決まった時点でやめるつもりだたことを言えなかった。
通信高校卒業後は進路など決めずただ休息したいことを言えなかった。
アルバイトをやめたいということを早々と言い出せなかった。
そして今は発達障害かもしれない、それを気付いてくれなかった、と言えていない。

ここ一〜二年ぐらいで時々見るようになった夢がある。それは母や父、教会の人達やかつてバイトしていた人達にむかって僕が号泣なり激昂なりしながら主張をわめき散らしている夢である。その勢いは半端なくマシンガンのようで、それでいて――まさに洋画の外人のように―― 一貫した主張で途切れることがなく正当性がある(と自分で思う。夢から醒めたときにそういう感覚が余韻として胸に残っている)。時にはマイクを持って叫びたてるほどであるから、フロイトの「夢は願望充足」という点で考えると、まさにそのままだな、と思う。

それ以前は「カラオケに何度リクエスト送信してもちゃんと演奏が始まらない」「今テレビでやってるものをビデオに録画したいのにうまく録画ができずに困り果てる」という夢を頻繁に見ていた。これはどういう夢かというと「自分の伝えたいことが相手に伝わらなかったもどかしら、いらだち」を現すものらしい。カラオケはまさにそのままだし、ビデオ録画の方はそれゆえ自分もうまく相手を受け取ることができない、という風にもとらえられる。

僕はなぜ言いたいことが言えなかった人生・人間だったのだろう?母によると「毅は2歳まで全く喋らなかったけど、2歳の誕生日に猛烈に喋り続けてびっくりした」と言った。その後は結局大人しい弱い泣き虫の子供になった訳だが。

言いたいことが言えないということに関連して、あることを思い出した。どんな場面だったか忘れたが、授業のような状況で、僕が先生から指されているというような状況だったろう。黒板に書かれたことについて答えを言いなさいということで、僕は正解と思しきものがわかっている。しかし口から出てこない。間違ってる可能性もなくはないから。そのときの身体感覚を言い表すと、頭の中では「答えを言ってみたい」ということでいっぱいになっているが、その答えそのものは喉でひっかかっている。というより、まるで胃袋の中に悪魔でも住んでいて、そいつが言葉を出させないようにしっかりつかんで離してくれず、喉のところから口まで出てきてくれない、という感じ。よく「言いたいことをグッとこらえる」というが、あれは今にも出てきそうなことばを、舌の方で悪魔がふんばって口から出さないような感覚である。僕の場合はそうではなく、体の内部で言葉がとどまる感覚だった。そしてその原動力は「間違ってる可能性もあるから」ということだけなのだ。

書きたいことはまだあるのだけど、繋がらない&まとまらない(いつものことか)。とりあえずここまで。



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フランス語の言葉の音の響きだけが好き

いつも長ったらしくなるので、手短に書いてみる。

フランス語をかつて勉強したことがあった。今でも興味は尽きていなくて、またやろうかなと思ってる。

僕はフランス語を勉強し始めたとき、まず発音と発音記号から入った。「発音さえ習得すればとりあえず辞書とかの例文が全部読み上げられるようになるじゃん」と思ったことと、その時点では意識してなかったけどやっぱりフランス語の言葉の響き・音が好きだったからだと思う(アスペルガー的)。

そうやって僕はかなり早い段階でフランス人に「限りなくフランス人っぽい発音」といわれるまでになったのだけど、前にも書いたように、フランス語を習っていても会話そのものが全くできなかった。音や響きにひかれて学び始めたものの、会話をするということは頭に入っていなかった。ここで僕は挫折のような状態になってしまった訳だ。

長ったらしくなりそうだ、切り上げたいけどもう一つ。

21歳前後ぐらいから、君が代問題をよく目に耳にすることがあった。今でもどういう問題なのかわからないけど、それがキッカケで君が代を意識するようになってしまった。

「あんなカンタンで短い国歌ないのにねぇ」

とかつて(音楽の教師だった)祖母が語っていたのを思い出したりする。そして自分でもふとしたときに歌ってみると、君が代の中の言葉の響き、それからその言葉とその言葉が連続している部分が非常に好きになってしまった。君が代の中の「千代に八千代にさざれ石の」という部分の発音の具合、音のつらなりが非常に心地いい。ここに意味への興味は絡まない。「chiyoni yachiyoni sazare ishino」という音の響きがしみわたる。

僕の場合、まず音の響き(シニフィアンとか言ったかな)が先立つようだ。そしてそれは、アスペルガーの特徴でもある。

話は変わって、というのをやってみた。
自閉症スペクトラム指数の自己診断
僕は43点だった。


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猫をいじめた小学生時代&日光浴を父に妨害される

「依存症の真相」という本を読んでいて、ふと過去の思い出が二つよみがえったので書く。

一つ目。

小学生の頃、家で猫のヒマラヤンを飼っていた。毛がふさふさしているタイプで、パンダやたぬきのように手足・しっぽ・顔が黒く、三年生の家庭訪問で担任が我が家にきたとき、母に「たぬき飼ってるんですか?」と訊ねたという。

この頃、僕はこの猫のゴローちゃんを可愛がり、そして時にいじめた。いじめたというよりも、ほとんど突発的に虐待を加えるような感じだった(今はそんなことはない、ニュースなどで人間の殺人事件より猫のほうが不愉快に感じる)。

ゴローちゃんを可愛がって抱っこしてなでている。突然猛然とイライラがつのり、ゴローちゃんを床に叩きつける。さすが猫、とっさでもみすみすたたきつけられることはなく、着地とともに姿勢をきちんと取り戻している。そうして僕は猫の威嚇にも似た「フギャー!」というような叫びをあげてゴローちゃんをおどかす。ゴローちゃんも当然威嚇してくる。ふと、僕は罪悪感を一気に感じる。そして甘い声でゴローちゃんを呼び寄せ、また可愛がる。「もうあんなことしない」と思いながら、その直後は虐待することはない。そんな感じのことが、数度あった。

なぜあんなことをしたのか?最近読んだ本に大体だけどこんなことが書いてあった(多分「影響力の武器」という本)。父親が会社でうまくいかない、すると妻=母親へそのストレスを向け八つ当たりなどをする、母親は子供の失敗を見つけ叱り、子供はどこに向けられないストレスからペットを蹴飛ばす、ペットは小動物をいたぶり……。「風が吹けば桶屋が儲かる」のような理論で何がどう影響していくかというのを単純な例として書いてあったのだが、僕があのゴローちゃんをいたぶったのは、こういう影響だったことも考えられる。

父はワーカホリックだったし、母は母としての仕事はあまりこなせていなかった。父は毎晩ではないがグデングデンに酔っ払って怪物のように帰ってくることがあり僕は隠れるようにして部屋で寝たふりをし、母も母で毎晩父の目を盗んで飲み歩くこともあり、そのことで父は母と言い合いになったのか母をスリッパでひっぱたいたこともあった(それぐらいでは母は行動をかえることもなかった)。
母がある夜酔って帰って来たのを僕と兄で介抱しようとするがどうにもならず、母は玄関に仰向けになり寝たままゲロを吐く。床と母の顔と髪がゲロまみれになる。僕は号泣し「情けない、情けない」と全身で感じた。
そして父によって僕の大切なプラモの外箱を捨てられた、最大のトラウマが発生した時期でもあった。学校では僕は女子からバイ菌扱いされいじめられていた。僕は父を「くさい、きたない」と感じてそれを実際に口に出し、父から猛烈にひっぱたかれた。

父と母はあの当時、相当の欺瞞を持って夫婦生活を送っていたのではないだろうか?それが僕に影響したと考えると、わりとすんなりと納得できそうな気がする。

もうひとつ考えたのは、猫のゴローちゃんが愛着行動として僕に無心でなついてくるのが、ふと苛立って痛めつけてしまうというこの一連の働きは、もしかしたら子供を虐待する母親の心理に似てるのかな、ということ。

二つ目。

「依存症の真相」を読んでいて、自傷行為などの解決・治療には投薬などによってセロトニン分泌異常をどうにかする、というようなことが書いてあった。これを読んで僕の想像がはじまる(以下、想像のため僕の実際の生活ではない)。

僕は朝7時頃に起きようと決める。そしておきたらまずベランダに出て日光を浴びる。日光浴は体内時計を正常に戻し、セロトニン分泌にもいいときいていたから。
そこへ父が登場する。「お天道様にあたってて、いいねぇ。体操とかするといいよ。やっぱ人間規則正しい生活が常識だよね。人間として、朝起きて仕事して夕方帰ってくるのが普通」
僕はその言葉を訊いて不快になる。僕のペースをまったく見てくれないこと、常識や人間という言葉をつかって自分の好みをただ押し付けてくる(まあ規則正しい生活がいいのはそうだけど)ことに不快を感じる。そしてなによりも父が意図しているかしていないかにせよ「毅に父として、人生の師として教えてやっているんだ」という態度を表出していることに気分が悪くなる。
母が「そんなアドバイスしなくていいのよ」と父に言う。父は「何いってんだ、毅に人の生活というものを教えてやってるんだ!」と言ってそこを去る。僕はますます不愉快になる。(想像ここまで)

(このことは前に書いたかもしれないが)一年前ぐらいか、僕は自分で食べようと思って台所で桃を切っていた。丸々の形のまま皮を湯むきし、「さてどうやって身を切ろうかな」と考えたとき、フォークで削ぐようにしようと思った。なんとなく「シェフが教える裏技」的な香りを感じたから。そして僕は桃の実をフォークでそぎはじめた。すると父が突如やってきて「包丁でこうやって(実際に手でやってみる)切るといいよ」という。僕は一挙に不快になる。僕の作業を邪魔されてしまった。僕はその切り方だとフォークで食べようとしてもツルッと滑ってしまうことも考慮にいれてのことだった。僕は反応をしなかった。すると母が父に「そんなこといわなくていいの」と諭す。父は「なにいってんだ、毅に教えて”やってるんだ!”」と言う。

父には、僕が僕自身で選んでそうやっている、ということが見えていない。「毅はわからないからああいう方法をとっているんだな」と思っている。もちろんわからないでやっていることもあるが、その場合は「今はわからないけど、段階を経ることによって自分でどうしていけばいいのかをわかっていきたい」という欲求によるものである。だが父はただひたすら僕を見下す。そして自分の経験だけを元に”人生の師”としていい気分になりたいがために僕に何かを教えようとする。

しかし父のそのやり方は、時によって(というかかなり多い)、僕の目からするとレベルの低いやり方だったりする。父は自分の知ったことが一番最上のやり方だと信じやすい傾向がある。だから目の前で自分よりもレベルの高いやり方を見ても、相手が自分よりもレベルが下だと思ってると、そのやり方すらもレベルの低いものとみなしてしまうようだ。いわゆる、権威に弱いタイプである。体に悪いからと妻や子に言われても酒をやめないが、医師から言われると途端に他人の酒の摂取に関してもうるさく口出しをするほど(「それが常識だ!」というようになるほど)酒をすんなりやめることができるようなもの(もっとも父は断酒はできないようだ)。

書きたいことがあったのにずれてしまった。先にセロトニンのために日光浴、という想像をしたのは、「日光浴でもしようかなぁ、毎朝」と思った途端、父の妨害が入ること、父によって不愉快にさせられること、「こんな朝早く起きてるんなら」と色んな用事を頼まれること、これらを考えたらセロトニンどころかストレス満杯になってしまいそうだ。そう考えたら、日光浴など無理、という結論になった。そんなことを考えていた。

まとまらない。ここまで。


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僕が読書するようになった経緯

僕が読書をするようになったきっかけ・経緯を書く。

僕は2004〜2005年頃からスピードスケートの加藤条治選手のファンになった。彼が2006年のトリノ五輪に出るまでが楽しみとなり、実際その年の五輪はそれがきっかけでずいぶん楽しめた。「知らない人が出てるスポーツの試合を見て何が楽しいんだ?」とずっと思い続けていたが、個人の選手を応援することによりようやく楽しめた。とはいえ、結局2008北京五輪への興味は今もないし、やっぱり「何が面白いの?」という気持ちに戻ってしまった。2006トリノ五輪は僕にとってはイレギュラーだった。

しかし、その数年前にカウンセラーのような人から「後から振り返れば今の時期がプラスだったってこともありますよ」と言われていたことから、ふと「ああ、そうか、こんな僕でも五輪を楽しめたんだな。この時期に」と思ったりした。後から振り返ったときに「2006年ははじめて五輪を楽しめました」と言える経験をしたんだな、と思った。このことから、漠然とではあるけど「今このひきこもりの時期に何ができる?」という気持ちが芽生えてきた。

加藤条治を応援していた時期と重なって、僕は「オーラの泉」を毎週かかさず見ていた(もっとも今は見ていないしややアンチ派になった)。「江原啓之は本物かもしれない」と感じ始め、その話術とパフォーマンスに僕も例外なく惹きこまれた。

トリノ五輪も終わり、その余韻からなんとなくスポーツを見ることに興味を持ち始めた頃、「オーラの泉」に格闘家だという須藤元気が出演した。僕はその回を見て以後しばらくして彼のファンになった(今は若干アンチ)。

ひきこもりの時期にしかできないこと、スピリチュアル的なことへの気持ちの傾倒……そうしたことが重なり僕はふと「本でも読んでみるかなぁ」と思い始めた。ひきこもりのこの時期に、ひきこもりながらできる最小のことは?勉強か本を読むことだと思った。

これが、本を読むようになるキッカケである。

それ以後の読書遍歴はあまりにも変動が激しいため、ちょっとまだまとめて書くことはできない。まだその読書遍歴の激動の中にいるような気もするからだ。それでも一言で書くなら、精神世界への心酔人間からアンチ精神世界人間になったというところだろうか。

ところで僕が発達障害を疑うようになったのは、読書をしようときめて一番最初に(よりにもよって)手に取った「神との対話」が、あまりに頭に入らなかったことからである。僕は少しおかしいのかもしれないと思うほど読めないため、掲示板で質問したところ、それは学習障害/LDではないかという返事をもらい、その概念をしった。そこから引きこもりや社会不安障害などのことを更に検索しつつ、色々絡んで発達障害、アスペルガー等へつながっていった。

ちなみに「神との対話」があまりにも読めなすぎるので読書への苦手意識はますます高まり、読書とはかくも面倒で疲れることで時間のかかることだと感じていてなかなか読み進めなかったのだが、ある日開き直り「ただ目を通す」ということだけを念頭にいれて読むようになった。字面だけを目で追う。意味などわからなくてもいい。

これが僕にとっての読書に関するビッグバンになった。今僕の部屋にある高さ180cmの2つの本棚は、以前はマンガで埋め尽くされていたが本だらけになっている。

もっとも、ほとんどまだ読んでないし、理解できてる本なんてごく一部なんだけど。あるいは、本購入依存症になっただけかもしれない。



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アンチクリスト

ちょっとだけ書きたくなった。

母が神様に祈ることより、神様を信じることより、小さい僕に必要だったのは、具体的な対処と努力だったのに。ちゃんと洗濯してくれること、体育着にちゃんと名札を縫い付けてくれること、弁当を彩りよくしてくれること、僕の話をきいてくれることだったのに。

キリスト教なんかでは幸せになれない。


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オゾン層とアキレス腱と雷とサッカーとままごとと避難訓練とetc……

自分の過去で思い出したことの中から小さい思い出をいくつか書く。

1)

小学校何年生だったかわからないけど、当時のニュースで、オゾン層だか何かで地球は覆われており、このオゾン層だか何かが破ける(と当時解釈した)と、そこに該当する地域は太陽の熱をモロに浴びることになり、物凄い高温になり熱で死ぬ、というようなことを知った。多分そんなニュースではないのだろうけど、僕はそう解釈してしまった。

それからしばらくは毎日恐ろしかった。いつ自分の地域の上のオゾン層が破けて熱射地獄になって死んでしまうのだろうか、と。はだしのゲンで原爆が落ちた後のシーンとイメージが重なっていたような気がする。

2)

小学生時代、アキレス腱が突発的にバチーンと切れるということを知った時がある。それでしばらくアキレス腱が切れることだけに怖さが集中していた時期があった。忘れていた時期もあるけど、ふとまた思い出して恐くなることが何度かあった。

3)

小学何年生かまで、雷が大変恐かった。H君ちに遊びに行ったとき、おばさんから棒つきのアイスをもらった。すると雲行きがあやしくなり、見る間に雷雨になってしまった。僕は恐くなったが、アイスを食べきらねばと思うものの、気持ち悪くなってなかなか食べることができない。結局どうしたか覚えていないが、おばさんに「食べきれない?」と言われてどうにかしてもらったような気もする。

ただし雷については兄(だったろうか)の一言によって恐くなくなった。「今まで生きてこられたのは、先祖のうち誰一人も落雷で死んでないからだよ」と言われ、それ以後まったくもって恐くなくなってしまった。「A=B=C」のように合理的に物事を考えて解決できたのはこれが初めてだと思うし、それ以後は合理的な納得はそんなに体験していない。ただこの雷についてはそう納得できた。

雷に関して、傘の先が金物で出来ていることが恐かった時期もあった。母と一緒に傘に入っていると「おかあさんの方が背が高いから、落雷にあっても死ぬのはおかあさんだけ」といわれ、それはそれでますます不安になった。

4)

中学二年生。体育の授業が始まり、サッカーをすることになったある日のこと。敵のゴール前、僕だけの目の前にボールがあるという状態になっていたとき(ああ、これを書いているだけでも辛くなってきた)、つまり僕にしかゴールに向かって蹴るチャンスがなかったとき、僕は思いきり固まって動けなくなってしまった。みんなが見ている。どうやって蹴ればいいのかわからない。「ちょっと!」「おい!」などとみんなが言うのがきこえるが、結局蹴られず、みすみすそのチャンスは消えた。

僕はみじめでどうしようもない気分になりながら授業の終わりの時間になり早々と引っ込もうとすると、尻を軽く後ろから蹴られ、「何が恐ぇーんだよ!」とクラスメイトの一人からかなり鬱陶しそうな表情で言われた。たまらなくみじめで絶望した。

5)

小学校低学年ぐらいまでだろうか、ままごと遊びをするような時、僕はペット役、犬役ばかりをやりたがった。これが一番楽だった。その中の誰とも関わらず、レジャーシート(の上でままごと生活は展開される)の外でおすわりをしていればよかったのだから。ままごとは苦手だったように思う。

6)

小学校の避難訓練で、火災ベルが鳴ったら地震が発生したという想定で机の下にもぐり込むという風に教わっていた。しかし僕はこれは訓練にすぎないということが頭に入らず、火災ベルが鳴ると本気で恐怖に陥り、必死に机の下に身を縮めて隠れた。高学年になってからだろうか、ある日ようやく「ああ、そうか、火災ベルがなることと机の下に隠れることは本来は関係ないな」とようやくわかった。火災ベルが鳴ったら本当は火事かもしれないのだ、ということが。

7)

小学生か中学生か……。誰かに、死について語っていた記憶がある。しかし相手には「よくわからない」と言われた。僕の理論としては、夜眠っている間の記憶というのは夢を見て覚えている限りで、それ以外には意識がない。死ぬということはこの眠っている時の意識がない状態なのではないか、ということ。ただそうすると、「死に続けている」という状態はある意味では「意識がない」という状態が”ある”訳で、”ない”を持続し続けているその意識は一体どこにあるんだ?……確かこんな理論だったように思う。「身体がなく、眠り続けて夢を見ていない状態」の何かがこの世に存在している、と今言いかえることもできるかもしれない。これはキリスト教とか一般的なスピリチュアルのことを絡めて考えたことではなく、あくまでその時の僕の死についての発想だった。

8)

教会にいくと、聖歌を歌うために母がピアノを弾くのだが、たまに牧師から「毅ちゃん、弾いてみない?」と言われることがあった。僕は練習してきちんとしっかり弾けない曲は人前で弾くべきではないと思っていたのと、そんな演奏を人に聴かれるのは恥ずかしいと思っているのでほぼ拒否した。だから母がその日その時に言われた聖歌を適当に弾いて物凄く下手な演奏になっているのを見ていて、「なんでこのレベルで堂々と弾けるんだろう……」と感じていた。今おもえば、母はその役目にアイデンティティを確立していたのかと思う。彼女しかピアノは弾けなかったから。

9)

小学生時代、夏休みは兄と共に母方の祖母の家に預けられていた。二階の寝室にはガラスケースに入った日本人形がたくさんあり、それが不気味で恐くもあった。が、ガラスケースをあけて指でつついたりさわってみたりすることもよくあった。

10)

教会の牧師の家の階段の踊り場の壁に能面が飾ってあった。二階にあがってみたかったけれど、その能面が恐ろしくて行けなかった。

11)

小学生の頃、本棚に楳図かずおの「まことちゃん」が並んでいた。背表紙にまことちゃんの顔が描かれているのだけど、遠目でしか見たことがなく、ずっと何か恐い顔だと思いつづけていた。ある日意を決して間近で見てみたら、単に鼻水を出して口を大きくあけた顔だとわかり、安心してまことちゃんを手にとり読むようになり、まことちゃんにはまって読みふけった。

12)

市内に響く短波放送が恐かった。迷いびとの案内などが一番恐ろしく、この放送で言われている該当する人がどこかを徘徊していたりさまよっているのかと思うと、何かがやたらリアルに感じられて、恐かった。テレビ放送で放送事故になり「しばらくお待ちください」と出たり、昔から使っている古い映像の放送終了映像(今はもう流れないが日本テレビの鳩のイメージの映像など)などを見ても恐かったが、短波放送もこれと同じ恐さだった。今はさほどではない。

13)

公文に通った時期があった。が、すぐに課題がいやになり、全くついていけなくなった。開始時間と終了時間を書きこむのだが、イヤイヤ休み休みで3時間ぐらいかかってようやく一つやりあげたり、母にやってもらうこともあった。公文の先生からは「これ本当に自分でやった?」と訊ねられることもあった。公文はすぐにやめ、同じ頃に入った友達に「もうやめたのかよ!?」と驚かれ呆れられた。

公文の先生が採点してるのを見ると、紙をめくってすぐに全体に大きな丸をつける。それを物凄い速さでやっているのを見てものすごく不思議だった。ちゃんと見てないんじゃないか?と思ったが、ちゃんと間違っているところがあると止まってバツをつける。今思うに、あれは速読だったんだろうか。


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母「今の人は就職しろとか結婚しろとかうるさく言われないじゃない」

朝、眠りから覚め頭がぼんやりとしていた直後、母が家の一階で「今の人は就職しろとか結婚まだしないんかとか言われないからさ〜」と大声で言っているのが聞こえた。父と何かを話しているらしい。

僕はまだまどろんでいる状態のときにこれがきこえたことにより、思考が色々始まってしまった。理論的に思考するというよりも、夢の続きのように、流れるように次から次へと関連性のある事柄が連なって自然に出てくるという感じ。以下はその時の思考を主に、さらに考えたことなどを書く。

まず、僕のことについて母と父がしゃべっているのだろうか、ということ。あるいは一般的なことを何か話し合っているのだろうか。それについて父はどう反応したのだろうか。父はいつもどおり「ウ、ウーン」とだけ曖昧な返事をしたのだろうか。

次に、「今の時代は〜」とか「昔は〜」とか言うような人は、思考が停止してるな、と思った。母はテレビで繰り返し言うことを鵜呑みにするから、一般的によく耳にする言説を一番のものとして自分の中に取り込んでしまう傾向がある。オウム事件の頃はマインドコントロールという言葉を良く使っていたし、最近では僕にむかって(悪気なく)「最近は毅みたいな人のことをニートっていうんだってね〜」と言ったりした。「はねるのとびら」という番組でニートのコントを繰り返し見たことから記憶したと思われる。

それから「今の人は結婚まだ?ときかれないからさ」ということは、昔の人はある種そのときに漂う空気や風潮、家族や世間からの圧迫感(?)等から強制的に結婚させられていた、あるいは結婚しなければならないという価値観や考えにとらわれた結果、結婚していった人達が多かったのだろう、という風に考えた。とすると、そういうことを自ら母が言うということは、結局母と父も妥協を含んだ結婚だったのだろうか、と考えた。

母の言葉は「したくもない就職や結婚をさせられていた時代は長かった」と置き換えられる。しかし今の時代でもそういう部分はぜんぜんあるはずだ。むしろ引きこもりなどはそう言った風潮や世間の常識が苦しくて引きこもりになるという選択肢を取っているのではないだろうか。昔よりも選択肢の自由の幅が広がった末に、ひとつの選択肢として引きこもりという状態がある。

母は自分の人生を肯定したいのだろう。自分の人生がもっとも正解であると思い込みたいのだろう。「そう思いたい」という自覚はなしに。芸能人が離婚すると鬼の首を取ったかのように非難する。自分は結婚生活を続けていることを正当化するためである。その裏には「この生活をやめたかったと思ったこともある」ということが隠れている。さもなくば「まあ離婚もありだね」と言うはずだ。離婚したニュースを見て「辛抱が足りない」などという。辛抱している、してきたということか。

「年齢や性別、その時代の社会現象を表す言葉で見ないでくれ、一括りにしないでくれ、それよりもそういうものを僕から除いた時に残るものは何か、そこを考えた上で見てくれ」と思った。

17歳の年の時だったと思うけど、母が言ったこと。「ねぇ、毅は今こうやってなまけてて人より楽な生活してるでしょ。」僕はその時は今ほど色々思考するアタマを持っていなかったが、今反論するなら「誰とも関わらなくて仕事もしないで勉強もしないで、それでも生きているだけで重労働、ぜんぜんラクじゃない」というようなこと。普通の人なら働かないで勉強もせず部屋で好きなことをやってる、ボーッとしてるというのは悠々自適な生活なのかもしれない。が、そうではないひきこもりにとっては「避難」なのだ。

「今の人は就職しろとか結婚しろとかうるさく言われないじゃない」=「だからダメ人間になる」もっともっと追い詰めるようにしつこく何度も言うべきだ、ということだろうか?それで何件か殺人事件等が起きていることに目がいかないのだろうか。

無職が母親を殺したという事件を見たとき、母は「やだね〜なんで母親殺すんだろうねぇ〜毅、お母さん殺さないでよ!?」と言った。なんとデリカシーのない発言なのだろうと感じたが、特別怒りを感じることはなかった。母は目で見たものから感じたことを黙っていることができないようだ。やはり彼女も発達障害があったのではないか?

「高度経済成長期はみんなモノや車や家がほしくて頑張ったけれど、今はもうモノでは誰も頑張れない」という一般的によく耳に目にする言説があるが、うそだと思う。少なくともほしいものは沢山ある。が、ただそれだけでは動くための原動力にならない。というより、動きたい気持ちはあっても、それを妨害してくるいろんなことが多すぎる、という方が占めているといったところだろうか。
僕は一人暮らしをしたいし、着たい服を着たいし、おいしいスイーツを食べたいし、本も沢山買って読みたいし、パソコンも新しいのがほしいし……。
「そのために頑張れば?」と想像の他人が言う。反論と言い訳は「ほしいものは沢山ある、お金も必要だ、けれど色々てんびんにかけたとき、頑張った時に否が応にもついてくるマイナスのオマケを受け止めるぐらいなら、ほしいものを諦めて引きこもっている方がマシ」

母が木村カエラを見て「なんでこいつ生きてんだ」と言う。僕は「クリスチャンのくせになんてこと言うんだ」と毎回思う。先日も同様なことがあったが、その時は少しイレギュラーだった。母は僕に補足した。「あのさ、今おかあさんなんで生きてんだ、って言ったけど、別に、本当に死んでほしいって思った訳じゃないのよ、そうじゃなくて」というので、僕は「なんで芸能界で生き残ってるんだ、って言うことでしょ、わかってるよそのぐらい」と言った。「ああ、わかってるのね、ああそう」と母は言った。母は僕が母のことを誤解している、と考えているらしい。しかしこの件については誤解しなかったものの、誤解されるようなことばかりしているのも事実ではある。そして実際それは誤解ではなく、母のどうしようもない部分を母自身が認めていないということでもある。そもそも「なんで生きてんだ」などと口に出して言うこと自体が非常識であるということに彼女は気づいていない。


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