何歳の時だったろう。母に連れられて、千葉の大きなキリスト教教会で、大会みたいなものがあった。
壇上で誰かが話している。自分がどうしてクリスチャンになったかとかそういうのを話していて、そういうのをキリスト教では確か「あかし」とかいう。
(この「あかし」、僕が家族によって所属させられた(が全然行ってない)教会でも初期の頃に求められたのだが、大人数の前で発表するなど出来ないし、第一(言語化して意識した訳じゃないけど)そんなことをしたら一生その教会についていくみたいでとんでもなかった。)
確かひげを生やしたおじさんが嬉々として自分や信仰について話しているのだが、その話の途中で「ここにきている皆さん同士で握手をしてお互いに祈りましょう!」とか言いやがった。僕にとっては「言いやがった」以外の何者でもない。どうしてこんな知らない場所で見知らぬ人たちとにこやかに交流などできよう!?しかも僕はそういうのが一番苦手なのだ。
そういうことになり、会場ががやがやとにぎやかになって握手をしあったり、祈りあったり、中には手かざしをしながら涙している人、それも子どもまで一緒に泣いていたりした。あの人たちは本当にクリスチャンなんだろうか、手かざしなんて見たことないが……などと(言語化して意識した訳じゃないが)思っていた。とにかくなんとかして誰かが話してくるのから回避するために視線を絶対に誰ともあわないようにしていた。
しかし一人の人が母に話しかけてきた。僕にも話しかけてくるのでとりあえず相槌を打って愛想笑いをしただけだった。でも確か数人と握手はさせられたと思う。自分からは絶対にしなかった。「しなきゃだめなんだろうか」と義務感に責められつつ自分からしようかどうかギリギリのとこで悩んだが、自分からは絶対にしなかった。
交流タイムは終わり、再び先ほどの人が話し始める。話なぞはなっから訊いていないのでどうでもいいし眠かったのだが、僕にとって非常に(マイナスな)衝撃的発言をした。
「キリスト教は〜〜なんですよ、だからクリスチャンには**な人は、一人もいないのです!」
彼は意気揚揚と語った。いや、僕にはそこだけ強調して聞こえたのかもしれない。なぜなら、「**な人」というのはまさに僕自身であり、僕はそのことについてずっと悩んでいて(とすると、この経験は中学以降だ)悶々としていた時期だったからだ。それを、こんな大勢の前で、こんなに激しく否定されてしまった。
しかし母はこの話を受けとめてウンウンと頷いていたはずだ。だとすると、僕の**の部分は母にも一切受け入れてもらえないことになる。
当時そこまで言語化して強く意識して考えたかは思い出せないが、でも「否定された!!抹殺された!!」という感覚は、非常に強かったように思う。
その後しばらくは、教会にいくなり牧師にあうなりしても「ああ、僕はここにいてはいけないんだ」という感覚になっていたような気がする。
ただそれから数年後、それは聖書をどうとらえるかの解釈の問題であるから一概には言えないという事もあるとは、知ったのではあるけれど……。
(「言語化して意識する」という表現は、僕はある年齢、というより結構最近まで自分の言いたいことを言葉にして表現するということが大変苦手だったことを前提にしている。「キリスト教なんか僕を批判するだけの存在だ!」というような”感覚”だけが頭や心にあり、”言葉化”できずに悶々としている、というようなこと。簡単にいえば「言いたいこととしてモヤモヤしてるものがあるけど、言葉にはできない、どうまとめればいいかわからない」ということ。このことから、発達障害と緘黙症がある、あるいはあったのではないか、と推測する)。
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壇上で誰かが話している。自分がどうしてクリスチャンになったかとかそういうのを話していて、そういうのをキリスト教では確か「あかし」とかいう。
(この「あかし」、僕が家族によって所属させられた(が全然行ってない)教会でも初期の頃に求められたのだが、大人数の前で発表するなど出来ないし、第一(言語化して意識した訳じゃないけど)そんなことをしたら一生その教会についていくみたいでとんでもなかった。)
確かひげを生やしたおじさんが嬉々として自分や信仰について話しているのだが、その話の途中で「ここにきている皆さん同士で握手をしてお互いに祈りましょう!」とか言いやがった。僕にとっては「言いやがった」以外の何者でもない。どうしてこんな知らない場所で見知らぬ人たちとにこやかに交流などできよう!?しかも僕はそういうのが一番苦手なのだ。
そういうことになり、会場ががやがやとにぎやかになって握手をしあったり、祈りあったり、中には手かざしをしながら涙している人、それも子どもまで一緒に泣いていたりした。あの人たちは本当にクリスチャンなんだろうか、手かざしなんて見たことないが……などと(言語化して意識した訳じゃないが)思っていた。とにかくなんとかして誰かが話してくるのから回避するために視線を絶対に誰ともあわないようにしていた。
しかし一人の人が母に話しかけてきた。僕にも話しかけてくるのでとりあえず相槌を打って愛想笑いをしただけだった。でも確か数人と握手はさせられたと思う。自分からは絶対にしなかった。「しなきゃだめなんだろうか」と義務感に責められつつ自分からしようかどうかギリギリのとこで悩んだが、自分からは絶対にしなかった。
交流タイムは終わり、再び先ほどの人が話し始める。話なぞはなっから訊いていないのでどうでもいいし眠かったのだが、僕にとって非常に(マイナスな)衝撃的発言をした。
「キリスト教は〜〜なんですよ、だからクリスチャンには**な人は、一人もいないのです!」
彼は意気揚揚と語った。いや、僕にはそこだけ強調して聞こえたのかもしれない。なぜなら、「**な人」というのはまさに僕自身であり、僕はそのことについてずっと悩んでいて(とすると、この経験は中学以降だ)悶々としていた時期だったからだ。それを、こんな大勢の前で、こんなに激しく否定されてしまった。
しかし母はこの話を受けとめてウンウンと頷いていたはずだ。だとすると、僕の**の部分は母にも一切受け入れてもらえないことになる。
当時そこまで言語化して強く意識して考えたかは思い出せないが、でも「否定された!!抹殺された!!」という感覚は、非常に強かったように思う。
その後しばらくは、教会にいくなり牧師にあうなりしても「ああ、僕はここにいてはいけないんだ」という感覚になっていたような気がする。
ただそれから数年後、それは聖書をどうとらえるかの解釈の問題であるから一概には言えないという事もあるとは、知ったのではあるけれど……。
(「言語化して意識する」という表現は、僕はある年齢、というより結構最近まで自分の言いたいことを言葉にして表現するということが大変苦手だったことを前提にしている。「キリスト教なんか僕を批判するだけの存在だ!」というような”感覚”だけが頭や心にあり、”言葉化”できずに悶々としている、というようなこと。簡単にいえば「言いたいこととしてモヤモヤしてるものがあるけど、言葉にはできない、どうまとめればいいかわからない」ということ。このことから、発達障害と緘黙症がある、あるいはあったのではないか、と推測する)。
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