塵も積もればヒキコモリ@ひきこもりブログ

二次元セクシュアル、ロリータセクシュアル

日本政府に対し「二次元キャラとの結婚を法的に認めて下さい」という署名活動実施中

「二次元セクシュアル」
「ロリータセクシュアル」

僕はこの2つを、正式な性的少数者として、提唱したい。

さて、もしも君が真剣に、二次元キャラ、あるいは幼児しか愛せず、それ以外とは結婚したくなく、家庭を持ちたくなく……そういうのであれば、君はオタクだとかロリコンだとかの肩書きはもう外した方がいい。

君はもはやヘテロ・セクシュアルの人間でもない。

君は、<二次元・セクシュアル>、あるいは<ロリータ・セクシュアル>である。

もしも、”生身の女性”に欲情することが出来るのであれば、君はあくまでヘテロ・セクシュアルである。その上で二次元キャラや幼児で自慰が出来るという話ならば、君は単にオタク、ロリコンでしかない。

そうではなく、性愛の対象としての相手が二次元キャラ、幼児であることを世界から許されなければ(変態行為や犯罪に走るしかない、では決してなく)「もう死ぬしかない」というほどの精神なのであれば、君は<二次元・セクシュアル>、<ロリータ・セクシュアル>である。性的少数者である。

ただし、それでも確認せねばならないのは、現時点では、成人である君が幼児からの愛を求めそのための行動を取ることは、やはり断罪されてしまうことであるということ。

そんなことはわかっているって?だから辛いんだ、って?

もう一度訊ねる、君のその辛さは死にたいほどなのか。

もしも「最悪生身の女性でいいや」という想いが少しでも見え隠れするのなら、君は単なるオタクでありロリコンである。普通にフェティッシュを持ってるだけの、人類に膨大な数いる<普通>のセクシュアルを持った人である。

君があくまで<高潔なオタク>ないし<高潔なロリコン>、すなわち彼(女)らと一生プラトニックであってもかまわないという思いも辞さないというのであれば、もう世間から変人扱いされる筋合いは”本来”ない。君は<二次元・セクシュアル>であり<ロリータ・セクシュアル>であっていいのだ。

オタク、ロリコンという呼び名で罪悪の重荷を自ら背負うのはもうやめなさい。君は何も恥じることのない、れっきとした、”性的少数者”なのだから。

それでも……先に書いた事だけは、現時点、この惑星では認められないことである。それだけは忘れないように。

その苦しみに対して僕は「君の愛は、あくまで高潔なのだ、それは君が沈黙を守ることでより高潔になるんだよ」ということぐらいしか言えないけれど。

そして僕は、こんな僕でよければだが、君のその部分を、チャーミングなところだと言い続けるよ。


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泉谷しげる「すべて時代のせいにして」

こんばんは、T君。久しぶりにメールをくれたね。最後にメールをくれたのはいつでしたっけ。

あれからどうしてるだろうと考えることもあったけど、季節が涼しさを越えてだんだん寒いという夜が増えるにつれ、さほど君のことを考えることもなくなってきてたよ。僕もそれなりに色々あるからね。

さて、君はメールにこう書いていた。

うたばん、という音楽番組を久々に見た。
そこに泉谷しげるという見知らぬアーティストが出ていた。
「すべての時代にせいにして」という歌を歌っていた。
内容は明らかに秋葉原無差別通り魔殺人の加藤智大などを意識した歌だった。
しかし泉谷はそれを「ひきこもり」として一括で語っていた。
ひきこもりの切実な思いなんか無視してやがる。
こんな歌が売れたらたまらない。
そう思ったら自殺に追い込まれてるような感覚だった。

おおむねそんなところだったね。

僕はその放送を見ていなかったからよくわからないのだけど、ひきこもりにはそれは相当応える歌だったんだろうなあ、と思うよ。

憶測にしか過ぎないけれど、おおむね、人のせいにするな、てめえのせいだろ、というような悩める若者叩きの内容だったんじゃないか。見てないからなんとも言えないけれど。

ところで思うのだけど、うたばんでは、その歌の全ての歌詞を流したのだろうか?

と思うのも、僕は今さっき、検索してその歌詞を見たからなんだよ。

僕は、今までの君のことを思えば、この歌詞は少なくとも君をそこまで痛めつける歌じゃないと感じた。

放送では多分1番しか歌ってなかったんじゃないか?

もしそうであったなら、実際に全部の歌詞を見てごらん。そこに、泉谷しげるからの、いや、”歌”ゆえのカラクリが隠されている、ともいえるかもしれないんだ。

1番だけしか演奏しなかったかもしれないその放送を見た上で辛いのなら、歌詞のすべてを見るだけでも、かなり気持ちがほぐれると思うよ。

泉谷は人の気持ちが一辺倒じゃないことをよくわかってる。少なくとも、”世間”の大人や親たちよりも。

一応僕の方から、歌詞へのリンクを張っておこう。

見てごらん。よかったら。

すべて時代のせいにして 泉谷しげる 歌詞情報 - goo 音楽



T君


追伸

泉谷しげるのCDが今更そんなに売れるとは思えないけどなあ。そこは安心していいと思うよ。


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君はマイノリティでいたいのか、マジョリティになりたいのか

ひきこもりではない膨大な人々は、ひきこもりな人間の苦しみ悲しみ痛み困難には想像力がとんと働かないが、ひきこもりの怠惰に見える生活の想像となると途端に想像力が逞しくなる。

彼らは無邪気に言う。

「ひきこもりってさ、完全に甘えだし怠けだよね。自己責任、本人が100%悪い。努力が足りない。親に申し訳ないとか思わないのかね?すごい親不孝。親に殺されても仕方ないし文句は言わせない。働かなくてもご飯は食べさせてもらってウンコして寝るだけじゃ、動物以下だよね。動物なら可愛いけど、ひきこもりってきもいし。ひきこもりにはもう人権なんかいらないよね。家族もさっさと追い出せばいいのに。経済とかにもダメージあるしさあ。軍隊にでもいれちゃえ。ああいう人が秋葉原の加藤みたいになるんだろうね。負け組はずっとそのまま引きこもっててって感じだね。」



オタクではない膨大な人々は、オタクな人間の苦しみ悲しみ痛み困難には想像力がとんと働かないが、オタクの萌えを堪能する生活の想像となると途端に想像力が逞しくなる。

彼らは無邪気に言う。

「オタクってさ、いい年した奴がアニメDVDとか見て萌え〜とかいったり、メイド喫茶にいって変な妄想したりするでしょ?パソコンにかじりついて2ちゃんねるとか絶対1日中見てるよね。それで変な気分になったら、アニメとかエロいイラストとか見てそういう事してるんだよね。ありえな〜い。彼女も作らないでそんなことするなんて。気持ち悪すぎる。ああそうか、彼女が出来ないから妄想の世界にひたってるんだきっと。オタクって10人いたら10人がブサメンキモメンだし?もてなくてかわいそ〜。ああいう人が幼女をフィギュアみたいにもてあそんで殺すんだろうね。オタクは全員逮捕した方がいいって感じだね。」



発達傷害ではない膨大な人々は、発達傷害な人間の苦しみ悲しみ痛み困難には想像力がとんと働かないが、”発達障害者がフツーの人にかける迷惑”の想像となると途端に想像力が逞しくなる。

彼らは無邪気に言う。

「発達傷害ってさ、空気読めないよね。喋ってる内容全然わかんないし、趣味とかもなんか独特すぎて怖いの。うちの職場にもいるんだけど、もう本当にうっざい。一度言った事、どうしてわかんないんだろう?親の育て方としつけが悪かったんだろうね。最近ニュースで見たけど、アスペルガーって犯罪起こす確率高いみたいだよ。うちの職場にいるのもいつ刃物出すかと思ってマジ怖いよ。そういう連中は障害者施設にでも一生入ってればいいのにって感じだね。」



リストカッターではない膨大な人々は、リストカッターな人間の苦しみ悲しみ痛み困難には想像力がとんと働かないが、リストカッターの自己愛の想像となると途端に想像力が逞しくなる。

彼らは無邪気に言う。

「リストカッターってさ、結局”可哀想なアタシをミテ……”みたいなことでしょ?Coccoとか椎名林檎に影響されちゃって。そんでHPとかで傷口とかポエムとかアップしてるじゃん。超きもい。親にもらった体を傷つけるなんて本当に親不孝だし最低。自己顕示欲が強すぎ。実はSM願望があるだけなんじゃないの。あと欲求不満で男にレイプされたいとか思ってそう。でも男からみてもメンヘラなんて願い下げ。一生一人で自己陶酔してオナニー自己満足してろって感じだね。」



ホモセクシャルではない膨大な人々は、ホモセクシャルな人間の苦しみ悲しみ痛み困難には想像力がとんと働かないが、ホモセクシャルの性生活の想像となると途端に想像力が逞しくなる。

彼らは無邪気に言う。

「ホモセクシャルってさ、そういうシュミなんでしょ?それに普通『私はノーマルな人間です』とか言わないし。男と男がエッチするのがもう有り得ない。ヒゲとかムダ毛とかじょりじょり言わせて最後はやっぱ男女みたいにヤるんでしょ?想像するだけで吐きそう。俺を襲わないでくれよって感じ。でも銭湯とかに来るのかな。こえ〜。エイズ増やしたそんな人達を認めたらホモ増殖して子供も生まれないし人類滅亡しちゃう。第一本当にホモなんているの?結局テレビのネタだよね?いるとしたら、新宿のあやしいところだけで固まっててって感じだね。」



自殺をしていない膨大な人々は、自殺で死んだ人間の苦しみ悲しみ痛み困難には想像力がとんと働かないが、自殺で死んだ人間の”現実逃避”の想像となると途端に想像力が逞しくなる。

彼らは無邪気に言う。

「自殺する奴ってさ、甘えてるよね。もっと現実を見ろって言いたい。人間誰でもつらいっての。生きてればいいこともあるんだから。死ぬ気になればなんだって出来るだろ。やらないで後悔するよりやって後悔する方がいいに決まってる。マラソンだって走り終わってから飲む水ってすっげーうまいじゃん。第一親より先に死ぬなんて、すごい親不孝。親は生きててさえくれればそれだけで幸せなのにね〜。子供を愛さない親なんているはずないんだから。てか死ぬのはいいけどさ、まじで電車止めるなよって感じ。おまえの自殺のせいでどんだけ迷惑かかってるんだって話。自殺するなら両親が亡くなった後、迷惑がかからない形でしろって感じだね。」



マイノリティ支援者ではない膨大な人々は、マイノリティ支援者の苦しみ悲しみ痛み困難には想像力がとんと働かないが、マイノリティ支援者の心理となると途端に想像力が逞しくなる。

彼らは無邪気に言う。

「マイノリティ支援者ってさ、偽善者だよね。私がやらなきゃ誰がやるの、みたいな変な正義感持ってそう。そんな連中支援するより、自分の生活大事にした方がいいのにね。マイノリティのために犠牲になってるアタシの人生最高とか思ってそう。第一そんな仕事してたってもうからないだろうに。親だって普通の仕事に就いてもらいたいって思ってただろうにね。親が可哀想。マイノリティに愛情をって、そんな連中よりも俺に愛をくださいよ〜って感じだよ。まあするのはいいけどさ、まるで宗教みたいに見えるからマイノリティの存在や問題を大々的に啓蒙するのはやめてくれって感じだね。」



だが、彼らの言葉を受けて、当のマイノリティはここでそのマイノリティ性を正当化し、勘違い、思い違い、自分を高いところにあげようとすることなどをしてはならない。

それこそまさしくマジョリティになろうとする態度であるし、結果マジョリティの彼らが言った言葉の文脈を君達も吐きたいということの証明のほかならなくなるからである。

「今はこんな自分の立場はマイノリティだけど、いつか世界の価値観がひっくり返るその瞬間がくれば」

その瞬間がくれば君はマジョリティとして生きるための想像力の欠如を獲得するだろう。マジョリティになるとは、不幸の存在を否認することで幸福の位置まで自分を仕立て上げることである。

世界の価値観がひっくり返ってマイノリティの性質が”普通”となったとき、君は幸福になるかもしれないが、同時にあらゆる不幸の存在を否認するまなざしを持つことになることを覚えておくことだ。

その不幸の存在を否認するまなざしの先にあるのは、あの日の君自身である。


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その言葉が君を苛立たせ貧乏ゆすりを激しくするのなら

親からの小言
かつて知人友人から言われた助言
テレビのコメンテーター達の意見
ブログへの批判的なコメント
匿名掲示板ですら浴びせられる正論

君は「それらの言葉が僕の貧乏ゆすりをひどくする」と言ったね。君の心はこういった言葉たちに、すぐ震えてしまうみたいだね。

そんな君でも、僕に何かを求めてこうしてメールをしてきた。

だからやっぱりここでも、僕は君にアドバイスをしてしまうことになるなあ。それを君は許してくれるだろうか。君にとってまた貧乏ゆすりの材料になってしまうかもしれないことを気にしつつ、それでも僕は「君に有効かもしれない」と思うある考え方を一つ、提案するよ。

君に彼らが浴びせるその言葉。

その言葉を、君が好きな人からの言葉だと考えてみるんだ。

別に色恋沙汰的な好きな人という事ではない(君も長らく恋をしていないとも言っていたしね)。

そうではなくて、僕の記憶が間違ってなければ、君は結構好きな著名人が多かったよね。読書好きな君は、好きな作家や文筆家が見つかると、その人の本を集中的に読むよね。

君は以前「尊敬するという感覚がよくわからない」といっていた。でもそれらの好きな人たちを、ひとまず君にとっての「尊敬する人」としてしまってもいいんじゃないかなあと僕は思うんだ。

そして、その人たちが、あの言葉をもしも言ったとしたら……と考えてみるんだ。あの言葉、つまり親の小言、知人友人の助言、コメンテーターの意見、君のブログへのコメント、ネットで返される正論……それらを、君の尊敬する人が言ったなら、君はどう反応するか?それを考えてみるんだ。

もちろん想像する時には、その人ならこういう言い方になるだろうな、という風に都合よく変換してしまっていい。

例えば親が「一体いつになったら働くんだ!!30歳にもなって!」と言ったのであれば、それを君の尊敬する、そうだなあ、元格闘家のあの人ならこんな風に言うだろう、と想像してみるんだ。彼ならきっとこんな風に言うんじゃないか?

「そろそろ自分なりに締め切りを決めて、それに向かって動き出してみるのもいいのではないでしょうか。数年間充電したことが、私にはあなたにだいぶ強さを身につけたようにも見えますよ」

少し変換しすぎかもしれないが、彼の穏かな雰囲気からすれば、このぐらいになるんじゃないかと僕は思うよ。

どうだろうか?彼がこう言ってくれたと考えたとしたら、「うん……それもそうですね」と少しは思えるんじゃないかなあ。

それでも「いや、だけど」と何か言いたくなるような気持ちになるのであれば、その何か言いたい事っていうのはとても重要なことだ。想像の彼を介してはじめて君から出ようとする言葉や気持ちかもしれない。君の尊敬する人に対してすら、投げかけようとする言葉なのだから。

もしそうなった場合は、今度はその想像の人に自分の気持ちを打ち明けてみたらいい。そうすることで整理がつくことってあるからね。

どうだろう。こんなやり方を、試してみる気はないかな。

ところで、君がしてしまう貧乏ゆすり、それは行き場のないまま澱んでしまった言葉たちがざわついているからなんだ。本来、肉体の上部に位置する口から飛び出なければならなかた言葉達は、仕方なく肉体の下部から出ようとしているためなんだ。

その言葉達が肉体の下部のどの辺から出ていこうとしてるのかはわからないけど、僕は多分くるぶし辺りからなんじゃないかと思うよ。そしてくるぶしよりももう少し上の方、膝あたりで言葉が停滞していると、きっと人は膝を抱えたくなるのさ。

だから貧乏ゆすりが始まったら、「ああ、まただ」などと責めて無理矢理止めようとせずに、「くるぶしから旅立って行く言葉達」を想像してみるのもいいかもしれないね。

さて、僕から言えるのはこんなことぐらいなだけだ。

僕は君にとっての尊敬する人になれてる自信はないから、もし僕でだめだったら、ここまで書いたことも、誰か他の人が言ったことだと想像してくれればいい。

それも無理なら、存分に貧乏ゆすりをすればいいのさ。何も悪いことはない。

T君


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母親による児童殺害事件と、アスペルガーについて

最近ほとんどテレビを見ないのだが、今日はたまたまニュースでも見るかな、と思ってつけた。

どうやら小学1年生の児童が殺されたらしく、犯人は母親。当初母親は自作自演をしていたという。

それに対してのコメントは、おおむね「どうして母親が……」という主旨のものばかりであった。

僕はその「どうして」がよくわからない。いや、わかるんだけど、僕はそのみんなが「どうして?」と感じてしまうその共同幻想の中にいないのだ。

どうして派の人の感想は、更に付け加えるなら「自分の子でしょう……自分でお腹を痛めて産んだ自分の子……」「どんなことになったって、自分の子は自分の子じゃない……」といったところだろうか。そんな人には「ずいぶん平和な家にお育ちですのね」としか言い様がない。

僕としては、「母親か、なるほど、もうそれだけでなんとなくの事情はわかるわ、ハイおしまい」である。親戚が殺したり、全然他人の青年が殺したり、それらよりも事情がなんとなく察せられる。

これらのニュースを受けて、少し乱暴な言い方をするなら「母性本能というものがあるでしょうが。母性愛が。犬畜生じゃないんだから。」などと言うようなコメントが流れる事で、子育てストレスとかそういうのを抱えた母親達が責められるであろう。「ああ、私が母親失格、人間ではないと言われているのと同じことだ」「こんなに辛いのに!!どうして責められなきゃいけないの!!何もわかってない人たちに!!」と。

秋葉原の通り魔、加藤をコメンテーターが断罪するたびにテレビの前で一部の青年がジリジリとしたようなことと同じである(もっとも彼の犯行は死罪をもって償うしかないであろうことはまちがいないが)。

そしてお母さん仲間でもそんな話をするのだろう。「やだねぇ、自分の子が可愛くないのかねぇ。」などと。そんな井戸端の中で、ある母親は「ええ、ほんとですよねぇ」などと頷きながら、彼女は「(ああ……)」と頭の中でため息をつくのだ。

個人的に思うのは、「親が子供を殺す事だってありうる」ということを前提に考えるべきなのではないだろうか。いや、前提にいつも考えてろということではなく、頭の隅っこに置いておく、ツバつけた、程度になんとなく気にしておくのがいいのではないか。

僕の母は大抵こういう事件があれば「どうして自分の子供(親)を殺すかねぇ」と言う。それはひるがえせば「母親は母親でしょうが」「自分の親でしょうが」ということなのだが、僕からすれば「あんた全然母親らしいことしなかったけどね」というところだ。こういう自覚のない人が常識的な意見を真っ当な人間を代表したつもりで言うのだからたまったものではない。もっとも、そんな風に犯罪者を断罪することで気持ち良くなれる心理もあるのだろうが。殺害をしていないだけ、ぐうたらな自分でもまだマシ、という気持ちが働くのだろう。

どの局だったかわからないが、ある保護者の父親が「わからないけど、母親にしかないストレスみたいのがあったんでしょうかねぇ」とコメントしていた。これだけではなんとも言えないが、少なくとも彼はひるがえせば「父親にしかわからないストレスを自覚している人」である。自分の影の部分を認識している人である。このことは、彼に子育てにおける冷静さをいくらか保持し続けるもととなるであろう。

彼の前に発言したもう一人の父親は「一番あってはならんことですねぇ。何も言えません」とコメントしていた。もちろんこれだけではわからない。最初に「色々事情はあるのかもしれないけど」というのがくっついていたのをカットされたかもしれない。だがそれだけを言ったと仮定するなら、彼には父はこういうものであり母はこういうものであり子供はこういうものであり家族とはこういうものであり、それ以外のものはある訳がない、という幻想の中でのみ家族をやっていくのであろう。彼が子供の思春期を迎える時、対応しきれず混乱するか仕事に逃避する確率は高い。

ところで思うに、日本は親孝行の国、(手前勝手な)儒教の国なのであるから、コメントとしては「もしまだ生きてらっしゃるのなら、おじいちゃんおばあちゃんが可哀想ですね。自分の娘が孫を殺すなんて思いも寄らなかったでしょう」というのが一番的を射るのではないかと思うが、僕はこの国の儒教思想はよくはわからないので、なんともいえない(だから生きにくい)。

上記のことに関連するかどうかはわからないが、辿り着いて読む人にとって役に立つかもしれないので、書く。曽野綾子の本にあったこんなエピソード。大体で書く。これは決して「んまあ、母親のくせに……!」という話ではなく、「そうよね、人間だものね……」という話である。

「ある国で、子供を抱えた母親が「この子をもらってください」と私に渡そうとしてきた。このままでは二人とも餓死してしまうから、とのことだった。
私には引き受けることができず、私がたまたま持っていた飴を母親に差し出しました。赤ん坊の口に直接入れたらのどを詰まらせてしまうかもしれないから。
しかしその母親は飴を受け取ると、自分の口に放りこみました。人間の本能というのはこういうことかもしれない。」

ところでこの事件、報道で「子供に発達障害、母親自身には難病があった」ということだった。発達障害は現在色々啓蒙されてるところであるが、世間の誤解として「アスペルガー症候群=犯罪者予備軍」というのが強いように感じる。これは、僕のブログに検索で辿り着く人の中に、「アスペルガー 犯罪」などで検索してくる人がほぼ毎日いることからも実感としてある。そういった決めつけの風潮がこの事件を起こしたなどと簡単に結論づけるのは浅薄すぎるが、なきにしもあらずなのではないだろうか。

といっても、その風潮に強く反発するかのように「アスペルガーは天才の可能性!伸ばすべきその子だけの素晴らしい個性!」という100%賞賛の空気もどうかと思うけど。

「うちの子はアスペルガーなんでしょうか、心配です」なんて言っても、「ありのままの個性を尊重していこう」っていう風な教育方針だってここ10年か20年ぐらい根強かったんだから、みんな個性を伸ばされて「みんなそれぞれ違ってていい」っていう世界を作り出しておいていまさら「空気が読めないんです、協調性がないんです、みんなと違うんです、アスペルガーを治療してください」もないんじゃないかと思う、ようになってきた、最近。子供はみんな最初アスペルガーでしょ、というか。

アスペルガー型の脳は増加したんじゃなくて、「ありのまま個性尊重主義の空気」を曲解して躾を怠った親が多くなったことから、アスペルガー脳に礼儀作法マニュアルを搭載させられなかった子が増えてるだけじゃないかしら。だって、アスペルガーの子への対処法みたいな本を読んでも、普通に躾のことが少しやさしめな感じで書いてあるだけだもの。

「子供が発達障害を抱えているという結果に至っても、子供がちゃんと人になれるかどうかは、親次第ですよ?」。

僕自身のことについて考えてみても、そんな風に思う。あと僕の祖母のことを思い出しても、”人様に対する礼儀作法”はちゃんとしていたが、それ以外の部分では限りなくアスペルガーな人だったな、と思う。

*********

(このブログにそれで辿り着く人はほとんどいないとは思うけれど)

あの殺害犯人の母親に自分を重ねて苦しくなってしまった母親の人へ。

あの犯人はあなたではない。

子育てストレスで我が子をひねりつぶしたくなる気持ちを持ちながら実行していないあなたと、実際に殺してしまったあの犯人には、明かな境界線がある。あなたはあの犯人ではない。あなたは大変立派である。

しかしそんな言葉が通用しないのであるなら、こう考えてほしい。

今度の言葉は、まったくもって「あの犯人はあなたである」。

あの犯人は、あなたの身代わりなのだ。あなたが子供をひねりつぶしたい気持ちを、あの犯人が行い、犠牲となってくれたのだ。あの殺害された子供は、あなたのために死んだのである。

もちろん、こんなことは口が裂けても本当に言ってはならない。思っているそぶりをしてもならない。そんなのは”きちがい”である。

他人は、人が頭の中で考えてることが見えた時、それがちょっとでも異質だと「その考えはだめだ、危険だ、人としてありえない、存在すべき考えではない、こっちの考え方にしろ、この考え方ができなければおかしい」などといってその異質な考え方をもみ消そうとする。危険なことにつながるから、という理由だけで。

だが、頭の中で思うこと、共感すること。それは誰にも咎められない領域である。

あなたは、「あの犯人の母親と、殺された子供は、私の身代わりなのだ」と思っていい。いいのである。それは全くもって罪のないことである。

そして誰もがこんな事件は1ヶ月もしないうちに忘れてしまうだろうが、あなたはこの事件を記憶し続けるべきである。それは、あなたの身を守ることにつながるのだから。

ただし、そう考えていることを誰にも悟られないことだけは守るように。


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秋葉原通り魔事件に共感を覚えてしまった君へ

こんにちはT君。ブログ読みました。

最近、読書をする気力が落ちているそうですね。1日1時間も読めなくて、運動のためにとウォーキングに行けば眠くてしょうがない。帰ってくれば眠気だけはあるのに、目をつぶっても眠れない。シャワーをする気にも着替える気にもなれない。君はそう書いていた。

気力がない状態、もしかするとそれは今の君にとって必要な状態なのかもしれないと僕は思う。だからこういう時は出来るんであれば無闇に行動的になろうとせず、休むことだよ。読書もしてはいけない、ウォーキングもしてはいけない、食事もごはんのことで頭がいっぱいになるまでは食べてはいけない、トイレだけは行っておこうか。そうしていたら、わずかに砂粒のようなぐらいでも、行動欲求が沸いてくると思うよ。それまでは石のようにじっとしていることだ。

さて、君はそんな気力がない状態でもテレビだけはぼーっと見ていると書いていた。テレビはもう数年前から好きじゃなくなったはずだったのに、ある意味ではかじりついている状態だ、と(行動力あるじゃないか、よかったね)。そしてチャンネルを合わせるのは、秋葉原の通り魔連続殺傷事件をやっているチャンネルばかり。

大変凄惨な事件だったね。どこのニュースでもワイドショーでも大きく取上げられ、現場の生々しい映像が(見ている人を洗脳するがごとく)繰り返し流され、誰でも言えるような内容で犯人の精神分析もどきがなされ、人生の帰路を断たれた被害者の悔しさを(若干過剰な演出と共に)悲しみで満たして報道している。

だが君は別に一般的に共通する悲痛な思いを抱えながらこれらニュースを見ているのではなかったんだね。君はそうではなかった。

君はテレビでやってる犯人の心理分析&精神分析、犯人の幼少時代からの人物像の追跡、コメンテーターやアナウンサーなどによる犯人への批判と糾弾を見ていると、まるで自分がそうされているような気分になってしまう、と書いていた。さらに心のどこかでは「犯人は僕のかわりにあの事件を起こしてくれたような気がする」とまで君は書いていた。

そして同時に君は大変罪の意識に苛まれてしまった。全く関係のない赤の他人であるはずの犯人とこの事件に自分を重ねることで、君は大変焦燥感を覚えている。じりじりしている。

「僕も、犯人と同じだ」
「僕も、行動力があったらあんな事件を起こしていたかもしれない。」
「僕も、テレビでコメンテーターとかが「全く理解できない人間」と言う側の人間だ。」
「こんな共感を覚えていてはいけない、人間として最悪だ。」
「こんな共感をしていること、人に知られたらどうしよう。」
「こんな共感をすること、本当に間違ってるのだろうか?」

君が書いていたことを簡潔にまとめれば大体こんなところだろう。

結論から言おう。

君はその感覚を持ち続けていいのだ。そしてそれがおかしいことだと感じてはいけない。ただし他人には悟られないようにすること。悟られない態度を出来るようにすること。それが今の君には大事なことだよ。

確かに一般常識、倫理観から言えば犯人に共感などしていては単なるきちがいだ。犯罪者予備軍だ。そんなことを他人に知られたら「遺族の気持ちを考えろ!おまえが死ね!」といわれることだろう。

だが君にとっては「こういう共感を覚えていていいのだ。そして彼は僕のかわりにやってくれたのだ」という気持ちを正当化することが、一番君にとって焦燥感を取り去る薬になるのだよ。そして君が犯罪に走る、あるいは自害に走るのを止めてくれる防止策なのだよ。

人は音楽や映画を楽しむだろう?それは、そこに描かれている世界、そのファンタジーに身を浸すことによって、自らを解放する役目をになっているのだよ。簡単に言えばストレス発散なんだよ。

よくクラスの中でキレやすい子なんていうのがいる。その子を落ちつかせるには学内カウンセリングなどでもなく、3者面談などでもなく、腹を割って話すことでもないのだよ。その子に必要なのは枕をナイフで切り刻ませること、むかつく先生の顔写真をはった人形をズタズタにさせること、大声をあげさせることなのだよ。

だが世間ではこういったネガティブな発散方法をしなければならない状態に陥った人間の精神を頭から否定と批判をする。そしてそんな考えはやめろ、こっちの考えにしろ、その感受性は危険だ、ネガティブだ、マイノリティだ、少数派だ、いや、そんな考え・人間は存在していてはいけない、存在として間違っている……そんな風に抹殺しようとするのだよ。ただ頭の中で考えているだけなのに!

君の両親がテレビの前であのニュースを見ながら「恐いね、やだね、こんな人間にどうしたらなれるんだろうね」と言って、君は怒りを覚えたという。だが両親はさらに「あんたもこんな事件起こさないでちょうだいよ?」と言ったというね。

他人の親を批判するには常識の観点から言えばいささかよくないことなのだが、はっきり言おう。

君の両親は基本的には大変デリカシーの無い人なのだ。大変愚かであり、自分というものを全く見つめたことのない連中なのだよ。だがそれは君の親に限らない。日本全国、いや世界全国見渡しても、どうしようもない親というのは大変多いのだ。そのどうしようもない親というのも、また彼らの親、つまり君の祖父母にあたる人がどうしようもなかったのだ。愚かな親の連鎖と言ってもいい。

しかしそれも君までで打ち止めだ。いやなに、君が結婚せず子どもをもうけないだろう、という意味ではない。君は考えている、君は自分を見つめている、ということだよ。親も含めたこういった連鎖を止めるには、自分を誤魔化せない人がその鎖の中にあらわれ、鎖の連結を断ちきらねばならないのだよ。

秋葉原通り魔連続殺人事件は痛ましい大変残念な事件だった。犯罪に走ること、自殺することは大変愚かである。だが犯人は、あのやり方でしか鎖の連結部分を断ち切ることを思いつけなかったのだ。

しかし君はそんなやり方をする必要はもうない。彼は君のかわりだったのだ。身代わりだったのだ。被害者の死んで行った人たちも君の身代わりだったのだ(これらは一般常識では口が裂けても言ってはならないことだよ)。

何も「死んで行った人たちの分まで一生懸命生きろ」などというあほ臭いことを言いたいのではない。

いいのだよ。純粋に、あの事件を、君が君の人生を君にとって前向きにするためのエネルギーにしても。自分の中でそうしていることそれ自体は誰にも咎められないことなのだ。

むしろこれだけ君にとって自分に似通った人が起こす凄惨な事件というのは、今後しばらく連鎖的な事件は発生するかもしれないが(君のように焦燥感にとらわれている君の仲間だ)、それでも多分そうそう起こらないだろう。数ヶ月もすれば大体のみんなはこんな事件忘れてしまう。

だが君はこの事件を覚えているべきだ。覚え続け、心の中に宿すべきなのだ。それだけが、今の君にとって、唯一の助けとなるのだよ。それをしっかりと自覚することだ。

T君。

追伸

君は「冥福を祈るということがよくわからない、弔うということがよくわからない」そうだね。なんでも母親がクリスチャンだったから仏教や日本的な死生観があまり育まれていない、と。

いいんだよ、そんなものは。ただ手をあわせて眉間にシワをよせて(あるいはまぶたをギュッとつぶり)数秒間祈っているふりをしていれば。

みながみな冥福の意味を知っている訳ではない。転生輪廻を否定する人だってこの言葉を使うのだよ。それは単なる儀式のやり方の一つなだけだ。「悲しいです」とか「遺族のみなさん頑張って」とか「あの世で幸せになって」とか、そういう言葉の代わりをする機能を持っている言葉なのだよ。

そうみんなが言ってやれば遺族の気持ちが少しでも休まる。ただそれだけのことだ。


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「食事の団欒のようなものが鬱陶しい」君へ

以下の文章は、とあるブログにコメントしようとしたところ、やたら長くなってしまって「これまたブログネタになるな」と思って、結局そのブログにはコメントせずにこちらに記すことにした。そういう経緯の文章である。



「みんなで食べるの、美味しいね。楽しいね。やっぱり大勢で食事しないとね。家族団らんだね。みんな繋がってるね。みんな誰も一人じゃないよ。」 

君はそういう価値観の押し付けがいやだと、おっしゃいました。そして「みんなで食べることも、一人で食べることも、何も自分にとっては違わない」と。

うん、みんなで食べるのと一人で食べるのが行為としてはイコールなら大丈夫です、何も問題はありません。正常です。

「みんなで食べるのが凄くいやで、一人で食べると幸せ」になると生きるのがちょっと大変になってきますけど、まあそれでも生きられます。

食べることとか、みんなで何かをやるとか、そういう普通の行為に変に愛情的な意味をつけたのは企業などの宣伝とかです。あと音楽の歌詞。

テレビなぞで動物の親子が一緒に生きてるところを映してるだけで「深い親子愛です・・・」とかナレーションがつくんです。でも動物側からしたらそんな人間どもの感動にかまってられない。彼らに気持ちがあるとするなら、「親子愛とかどうでもいいからエサくれエサ!!ただし怖いから、エサ用意する間はあたしら隠れてるからね。あんたたちがどっか行ったらこわごわ食べ始めるからね」ってなもんでしょう。

それに他にも、「山崎パンは食育を考えています」なんていってあたたかい親子料理教室風CM流してますけど、「じゃああなたパンに使ってる添加物についてもちゃんと情報開示しなさいよ」って話だけど、そこまではしないんですよね。食品メーカーが食育なぞと言ってる時点でものすごく矛盾してる訳です。食育の観点から言えば山崎パンなぞ食べさせない方がよい。しかしCMではそう語る。食品値上げにも関係してるんでしょうかね。

結局、なんか「あったかみのある思想」みたいなものって、メディアが勝手に作り出してるんですよね。みんなそういうもの割りと平気ですんなり受け止めちゃう。高度経済成長期以前の昭和への懐古の気持ちを持つ人(老若男女問わず相当数います)の心を突っつけば、みんなお金を落としてくれる訳ですから。そこに更にエコとかスピリチュアルとかが絡んできていて大変厄介。

でもそういった押し付けられた価値観にはっきり抵抗を感じる人もいる。「そうかなあ、それは違うんじゃないかなあ、そんなそこまでの意味って別にないんじゃないかなあ……」と。

ところが、「あったかみのある思想」なもんだから、平気で受け止めた彼らからすると「せっかくあったかみのある気持ちに浸ってるのに、気分を害さないでほしい、心の狭い冷たい輩ね」なんて言ってくる訳です。

こちらは単にちょっと冷静なだけなんです。彼らは冷静ではない。「目からうろこが取れる」とか「気づき」とか言うんだけど、なんのことはない、別のうろこを目にはっつけただけ、別のタイプの熱病にかかるだけなんです。

冷静が良いか悪いかとかいう話ではなく、そもそもは畑が違っていたはず、っていうだけなんです。冷静な人は「畑がそれぞれ違うからね、領域はこっからここまでよ、こっからはあんたでこっからはあたしんとこ」と言う。

しかしあったかみのある彼らはちょっと違ってて、こちらがそんなことを言えば「何を言ってるんだ領域なんかあっちゃおかしい、そっちも同じ作物作らなきゃだめじゃないか、迷惑をかけるなこの非国民め」と言って平気で浸入してくる。宗教勧誘みたいなもんですね。うん、そうなもんです。

そのためますます冷静な人は黙っていなければならなくなる。黙っているから、「あったかみのある思想」はますます幅を利かす。それでも黙っている方が、まだ領域侵犯されづらい。分煙が進んでタバコを吸う人はますます肩身がせまいけど、喫煙コーナーで吸ってればまあ文句は言われまい。そんなもんです(僕はタバコ嫌いですけどね)。

君は、彼らの領域侵犯、洗脳に屈してはなりません。みんなで食べるのも一人で食べるのも一緒、というその気持ち。それは普通にあっていい気持ちなのです。

どんな大勢の力をもってしても、力だけで心までは縛ることは出来ないのです。うちのめされることはあっても。


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中島みゆきが好きな小学生、中学生達へ

中島みゆきが好きだそうですね。いいことです。

「一期一会」や「帰れない者たちへ」ではまったのでしょうか?それともお父さんお母さんの影響でしょうか?

しかし、周りの友だちは中島みゆきなんてあんまり興味持ってくれないらしいですね。挙句の果てには「キモイ」だのなんだの言われて。

クラスメイトには中島みゆきなんかよりMihimaruGTやSuperFLY、Aqua Timezや清水翔太などが人気で、音楽の話になるとちょっとクラスで孤立してしまうと言っていましたね。

だから無理して友だちからCDを借りて聴きこんでいる、と。聴いてみたらなるほど、そんなに悪くはなかった、でもやっぱり中島みゆきが好き……だけどやっぱり言いづらい。

それにインターネットで中島みゆきファンが集っている場所を見てみても、どこにも若い子が見つからない。顔文字も絵文字もない文章で、大人たちがなんだか「歌詞の深さ」や「夜会のすごさ」なんかばかりを語っている。

「中島みゆき最高」「中島みゆきマジいいよね!」って、普通に語れる場所どこにあるの?僕の仲間はどこにいるの?

思い切って掲示板などに参加してみても、「若いですね!」と言われて、対等には話してもらえない感じ。何か珍しい生き物を見るかのように興味本位で色々質問される。それで歌詞についてここがいいって言ってみたけれど、「まだ若い捉え方ですね」みたいな感じで言われて終わってしまった。そういうのってなんかウザイ。

君の話は大体そんなところでした。

結論から言いましょう。

中島みゆきが好きなことが認められる年齢は、25歳以上ぐらいからなのです。これは僕自身の今までの経験から言っても大体そんなところです。

10代だと物凄くびっくりされる。10代のファンなんていないと思ってた、ぐらいに言われる。20代でも前半ではまだ驚かれる。そうして25歳くらいからようやくみゆきファンとして対等に話してもらえる。驚かれない。中島みゆきファンって、本当にそんな感じなのです。

だから君が中島みゆきを好きなことでどこか孤独を感じていても、それは仕方ない現象なのです。

実は、今大人のファンの人たちも、それに近いような経験をしてきた人たちが多いです。

中島みゆきは「わかれうた」あたりから2002年に紅白歌合戦に出るまで、ずっと「暗い」とレッテルが貼られてきました。今でも言われることがあります。

もちろん暗いという言葉そのものは別に悪い形容詞ではありません。

ただそうレッテルを貼ってくる人は、「暗いからダメ」という意味合いを持って言っていました。最初から批判の精神で「暗い」といってくるのです。

大人の中島みゆきファンは、そうして「中島みゆきは暗い」「中島みゆきは暗い」といわれ続けて虐げられました。そして「暗い」と言われることに関してだけは、「触れようとされるだけで痛む人」になってしまいました。

中島みゆきファンは老若男女問わず、「中島みゆきを聴いていること」で多かれ少なかれ孤独を経験しているのです。

ところで僕も周囲にファンがいないことでの孤立感は感じてましたけど、この暗いと言われることに関してだけはちょっと違いました。

「暗い」と言われても、確かに暗い雰囲気の歌もある。それほど深く中島みゆきが好きでない人であれば、暗いとしか見えないことだってあるだろうし、むしろそういう暗さあってこその魅力でもあるよなぁ、と思っていたからです。逆に「暗そうに見えて実は何も考えてないスッカラカンの世界観」なんて言われるぐらいだったら「暗い」の方が100万倍マシ。そう思ってました。

だから、君も同じように考えてくれれば、多少は孤独感が違ってくるかもしれません。

つまり、友だちとはちょっと音楽の好みがずれてるかもしれない。中島みゆきはクラスメイトには理解されがたい。「おばさんの歌聞いて楽しい?」ぐらい言われるかもしれません。

でも、それが君にとっては中島みゆきの魅力なんです。ランキングの上位に入ってくるような音楽とは違うから、君は中島みゆきに良さを感じている。

そして、若い時にしか感じられない感じ方、受け止め方がある。まっすぐな受け止め方です。

だから、中島みゆきファンのネットでの雑談に参加したいのに、大人のみゆきファンたちの話してる内容に何か食い違いを感じても、気にすることはありません。それは、あなたと大人の感じ方が、違うからなんです。その感じ方のどちらがいい悪いではありません。

自信を持って中島みゆきを聴く必要はありません。誇りを持って聴く必要はありません。

自分の好きな時に好きなように中島みゆきを聴いていればいいのです。

おだやかな時代を聴いて、愛よりもを聴いて、りばいばるを聴いて、ララバイSINGERを聴いて、とろを聴いて、サーモン・ダンスを聴いて、ジェラシー・ジェラシーを聴いて、お月さまほしいを聴いて……。

そうしておればよいのです。

そして、君がいつか大人になった時、誰か若い10代のファンと知り合うことがあったとしても「エー!」とは驚かないであげてください。「うんうん、僕も同じだったよ、周りにファンの友だち誰もいなかった、見つけづらかった」と、言ってあげてください。


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環境問題に心を痛めるひきこもりへ

ひきこもりの君へ。こんにちは。元気にしていますか。こちらでは少し雨が降っていて、寒いような涼しいような、でも心地いい感じです。雨を窓の外から見て楽しめるのは、引きこもりの特権です。

さて、君はこの間のメールで、子どもの頃から学校などで教えられて以来、環境問題が実はずっと気がかりだと言っていました。ゴミやリサイクルの問題、Co2、絶滅危惧種、地球温暖化、etc……。何も出来ない自分が不甲斐ないといっていました。

結論から先に言ってしまいましょう。

君はそう言った問題に心を痛めるべきではありません。また考えるべきでも、対策活動に向かうべきでもありません。それらの問題については、君の中から一切を排除し、無視するべきです。それらはすべて洗脳だったと思うことです。今は。

いずれは引きこもりから脱したい、抜け出さなければと君は書いていましたね。ところが、引きこもりから(日本の)普通の生活レベルの人になることは、個人としての環境破壊レベルはもっと上昇ことになっていくのです。ある意味では引きこもりというのは最も地球に優しい形の人種とも言えるかもしれません。斎藤環もひきこもりはロハス&スローライフの実践者である、と書いていました。が、それはここでは置いておきましょう。

引きこもりから脱するために、北極グマやゾウが絶滅するとする。しかしそれは致し方ないことです。そのために君が死ぬ訳には行かないのですから。引きこもりから脱するためにアフリカで子どもが1000人死んでも、引きこもりから脱するために戦争がどこかで起きても、それは仕方ないのです。

環境問題のことなぞ忘れてしまってください。それは大きい問題のようでいて、今の君にとってはあまりに小さい事実です。きちんとゴミの分別をし、油を水道に流したりしない、それで十分です(それですら出来ない、面倒くさがる主婦の多いこと)。「小さい事からコツコツと」とは言うけれど、小さい事だけやっててももう間に合わないのが現状です。全員が車にもう乗らない、電車に乗らない、飛行機に乗らない、自分の畑だけで物を食べる、etc……そうしても、もう間に合わないのです(これは「だから絶望です」という意味ではありません。君のためのひとまずの屁理屈です)。

「それでも未来ある子どものことを考えたら、環境問題はやはり大事だ」そう言うかもしれません。しかし、そんなことを言ってごまかすのはおやめなさい。君は結婚する気も子どもをもうける気もないのですから。未来ある子どもがウンタラなどと言う輩は、子どもをダシにしているだけなのです。子どもは元来純粋で素直で素朴ですし(こすっからいやつもいますけども)はむかえば大人には怒られる、だからダシにされるしかないのです。子どものためなどと言って環境問題に携る事こそ、子どもの心のために不幸なことなのです。

環境問題は偉い人がなんとかしてくれるともいいません。なんだかんだで地球の未来は大丈夫ともいいません。未来の地球環境はどんどん悪くなっていくのでしょう。だが君はそんなことには目を向け心を痛めて不安になってはいけない。君は個人としては、環境破壊活動レベルをあげなければ普通の人にはなっていけないのです。

引きこもりから脱していくとき、ここまで環境問題洗脳にまみれた日本においては「エコきちがい」の人間に出会うことは決して珍しくはないでしょう。最近はスピリチュアルとも関連づけられて語られているのだから。だがそこで再びその方向へ心引かれてはならない。君はただ「そうだね、環境問題大事だね」とだけ上辺を取り繕うだけにしておくことです。

僕は、現在通常の社会生活を送っている人にはこんなことはいいません。その人たちには煙草吸うな車乗るなゴミ出すな息を吐くな……とまでは言いませんが、環境問題を考えるのはしごく当然だと思います。しかし引きこもりは違う。引きこもりが環境問題で引っかかっていれば、もうこれ以上活動レベルをあげることはできなくなるのです。何もかもが環境破壊に繋がるようにしか見えないのです。

引きこもりから抜け出す過程で「引きこもりから抜け出すのはいいけれど、ちゃんと環境問題に配慮してね」などと言われたらどうでしょう?そんな基準で引きこもりを抜け出ようと作戦を練ってみても、何も出来ないことがわかるだけなのですよ。ハードスケジュールの最中でダイエットで食事制限と運動とを全部最初からきちんとしようとしてストレスが爆発してますます太るようなもの。

君はたくさんのゴミとガスを抱えてしまっています。だからそれを部屋の外へ、家の外へエイヤと放り投げ排出しなければならない。そのゴミはどうなるか?次第に雨風にさらされて朽ちていくことでしょう。その間、庭でその姿を見ることはあるかもしれないけれど、そのうちおおかた消え去ってしまいます。ゴミの一部が風に乗ってどこかに飛んでいって動物の頭にでもあたって、その最後の一匹だった動物が死に絶えて絶滅するかもしれないが。

君にとって大事なのは、君の外側の事ではなく、内側の事です。君の内側の方がよほど環境が破壊されてしまっているのです。「人のこころは世界と繋がっている」などという与太話に真面目に付き合っていてはいけない。君は君として、君にしかない内側の螺旋階段を降りていくのです。そうしなければ、外側には向かっていけないのです。

今は。


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引きこもり改造論 〜責任をなすりつけよう〜

引きこもりの皆さん、元気ですか。元気な訳ないですね。引きこもってるんですから。その状態ですでに普通の人に比べたら「ほとんどビョーキ」なのです。

しかし引きこもってしまったのも、引きこもるキッカケになったあのことも、過去のあのことも、あの人がああだったことも、あの事件がああなのも、社会がこうなのも、自分がぶさいくなのも、自分がコミュニケーション能力がゼロなのも、エトセトラエトセトラ……「自分のせいだった」と自分に引き受けてはなりません。あなたはこれまで十分そうしてきたのです。それゆえにあなたは動く力を失ってしまったのです。そうしてあなたは純粋だの優しいだの言われ続けてきたのです。そう言われることで、あなたの自分を責める性質はますますあがることになるというのに。

ですから、今後はあなたの肩の荷になっているすべてを一つひとつ、他人のせいにしていってください。昔のことであればあるほどそれはいいです。なぜならあなたがそんな昔のことに引きずられていても、そんな出来事はもう誰も覚えていないため、あなたがそれを誰のせいにしようと、誰にもわからないからです(出来ればその人に謝罪してもらいたいという思いは出てくるでしょうが、実現ほぼ不可なので、あきらめましょう。そしてあきらめなければいけないのも、”時”のせいだとなすりつけましょう)。

そうして責任を自分の体から放して遠くに放り投げると、ありとあらゆる事柄が「自分のせいではなかった!」と思えるようになります。同時にありとあらゆる怒りが発生する時期がやってきます。

そうなるとその怒りは暴発しそうになりますから、これはこれで飼いならさなければなりません。なぜかというと、まかり間違うと事件を起こしてしまいかねないからです。そこでやるべきことは、あなたのその怒りのエネルギー、あるいはそれにつながる事柄を、さらに深く掘り下げるようにして、「他人のせい」にしていくのです。

こうしていくと、いずれは怒りもおさまっていきます。なぜなら、一つ一つの”トラウマのようなもの”に怒りの炎を着火していっても、いずれそれらは灰になるだけであり、あなたにとっては灰になりすっかり熱のとれた冷めたそれらは燃やし尽くす前のものとは全然違うものになっているからです。

そうしてあなたの中に残るのは「他人や周囲のせいに出来る能力」になります。責任転嫁能力だけが体に沈殿していて、それが残り続けてくれます。

そうすればしめたもの。その時点でまだまだ引きこもっていたとしても、あなたは「あらゆることは自分のせいだ病」から「あらゆることは自分のせいじゃない病」になれるのです!え?「病」なのかって?そうです、違う病気になるのです、今までとは違った病気に。

それなら意味がない、と言わないでください。ありとあらゆること、ありとあらゆる人格は「病気」になる要素なのです。それが時代や社会にマッチしているかしていないかによって病気か健康に分かれるだけなのです。引きこもりのみなさんも、時代が違えば「高等遊民」なんて呼ばれていたんですよ。

心の中で何かを他人のせいにすることに躊躇することはありません。あなたは状態としては引きこもりなのです。ですから、部屋の中、家の中、あるいは散歩している最中に何かを人のせいだとしても、誰も全くそれに気づきはしません。

一つ二つ注意を。

「呪わしく思う」というような状態になってはいけません。それではあなたの中の”トラウマのようなもの”は炭と化し、いつまでもあなたの中で燻りジワジワと燃えている熱源になってしまうからです。練炭自殺のようになってしまいますから、危険です。健全に元気に怒りのエネルギーを燃やしましょう。

それと、こういうことをやっていると必ずあなたを諭そうとしてくる輩が出てきます。そんな連中は動物愛護主義者のようなもので、あなたを自分よりも下だと見下して近づいてくる輩です。しかも”自分は優しい”と思っているから手におえません。あなたを利用して、自分の自己満足と優越感にひたろうという魂胆ですから、そんなものは一切無視してください。彼らはそんなことを自覚もしていないのです。言葉の魔術であなたを反省の道へと誘導する悪魔のようなものですから、目を絶対に見ないようにしましょう。「ごくせん」のヤンクミが不良どもにする説教などもっともいい例です。

また「あいつめ、やっつけてやる!」などと思い何か刃物でも持って出かけたくなった時はSTOP!こういうことについて歯止めをかける方法というのはなかなか難しいのですけど、自分の気持ちがやわらぐものを普段からいくつか用意しておくとよいでしょう。個人的には子猫の動画、アロマオイルなどが有効なのですが、それはさすがに人それぞれになります。(※「あらゆることは自分のせいだ病」の時にこういう”癒し”をやってしまうとますます生きる力が減退するので、やめましょう)

さあ、引きこもりのみなさん。色んなものを人のせいにし、人を悪く言いましょう。まずは手始めに、親やいじめた連中、嫌いな芸能人などからやってみましょうか?

ちなみに、僕は中島義道の「怒る技術」という本を一応読んではいますが、上記のことはそれとはあまり関係なく、自分の体験上のことなのですが、一応参考資料としておくことにしましょう。あわせて「山田花子自殺直前日記」も読みましょう。しかし引きずられて自殺をしないよう気をつけること。死んでしまったら何も誰のせいにもできませんからね!


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ひきこもりの子を持つ親の方へ

ひきこもりの子を持つ一部の親の方は、子供がひきこもっていることで焦燥感が募っていることと思います。

または、「親が死んだらどうするんだ」、と。「親が死ぬという未来は必ず来るんだから、それについて想像力を持て」、と

しかし自分の考え方をちょっとだけ突っついてみませんか。

ひきこもりは、かなりの確率で自殺を考えています。

そこで「我が子はひきこもっていることで、自殺していないでくれている」と思うというのはどうでしょう。

片方にだけ死のおどしをかけるのは、ちょっとフェアではないのではないでしょうか。

実際に親より先立つ人は意図的であれ事故であれ、相当います。

しかも今は、ひきこもりに限らないと思いますが、かなりの人の頭の中に「硫化水素」というワードがちらついていることと思います。

ただし、それを想像することで、過度の保護に走るのは違うかもしれません。

まあ、「そんなことで親に恩を着せるぐらいなら死んでしまえ」「働かない、自立しないなら死んでくれた方がましだ」というのであれば仕方ないですが……。

色々もっと書いてみようと思いましたが、うまくいかなかったので、シンプルに、以上です。


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ある人へ、僕が送ったメール

以下は、まさに今この時間の少し前に、僕が最近メール交換をしている20代前半の男性に送信したメールである。アドバイスをする身になると書くこともだいぶ理路整然としてくるもので、書き終えてから我ながらその返事の内容にふむふむと感心してしまった。そこでここにも記し残しておこうと思い立った。彼がこのブログを見ているとは思えないから。

その相手の彼へ。もしもあなたがこれを見つけたとしたら、すいません、謝ります。ただここに乗せたことは、自分のための確認の意味もあるため、そうということでご容赦ください。決してあなたをだまそうとかそういうつもりではないのです。




どうも、メールの返事をありがとう。

「今まで何度かメール交換を切られた」と書かれてましたが、多分みんな、***さんと同じく、メール交換を続ける気力が無くなり、みんな消えていくのだと思います。はっきりと「すいません、もうメールはやめにしたいので返事はもうくださらないで結構です」といわれたのなら「切られた」といってもいいかもしれませんが、そうではなく相手からの自然消滅であれば、同じく気力が無くなったか、「どう返事したらいいかなあ」と思ってるうちに忘れてしまったということだと思われます。「みんなメールも打てないほど、めんどくさくなってしまうほど、疲れてるんだなあ」と思えれば・・・。

僕は10代の頃はインターネットがありませんでしたから、文通、手紙のやり取りを色んな人とやっていました。メールとは違って相手からの返事は現物が常に目の前にあるので、返事を書くことは常に頭の片隅にありました。が、メールだとどうしてもPCを起動した時だけになってしまうので、そのときにすぐメールを返さないと忘れてしまうことがほとんどです。もしかするとメールもたんびたんびに印刷しておくと、少しは続くのかもしれませんが・・・面倒ですね。

しかしこうして(僕とのこのやりとりがいつか途切れるとしても)やりとりをするということは、心に何かしらの作用があると思います。誰かに何かを伝えるというのは、自分の中の”言葉になっていなかったもの”をまとめて発散するということですから。その分、心からもやもやしていた何かがそぎ落とされ、少し気持ちが軽くなるかもしれません。

それと、メールが続かなくなる理由のひとつとして、「前回自分はどんなメールを相手に送ったんだっけ?」と思ってしまうこともあるのかもしれません。まあ、これは相手が自分の前回のメールの文章を「>」で引用を残しておいてくれれば続くのですが、これもなぜか返信するときには削除してしまいますね。

「孤独者同士はわかりあえない」、これはもっともだと思います。なぜなら、孤独者は「世間の大多数の人たちが普通と認めてやっていること」になじめず納得ができず行動できず、その上で孤独になっているため、孤独者はみな個性が強すぎることがよくあります。

そんな風に孤独者はみんながみんな個性が強いので、お互いによくわからない、ますます共感できないというような構造になっているのです。これは仕方ありません。孤独であるということは、自分の価値感や感性を世間と同調させないというようなことから成り立つものです。

孤独になりたくないのなら、一般常識を学び、マナーを学び、お世辞や媚びを学び、長いものにはまかれることを学び、流行の音楽と映画とドラマを見、流行に染まっては忘れ、仕事中毒になっていけばいいのです。個性的なものをすべて排除することです。しかしそんなことできないから孤独なのです。

ただしそうやって普通の人として生きていられる人達が孤独を感じないというわけではありません。彼らの中にもやはりふっと我にかえったとき「自分は何をしているんだろう?」と感じる人達はきっと大勢いるのです。しかし明日がきてしまうため、そんなことを考えてる暇もなく、外へ学校へ仕事へ出かけてゆくのです。

発達障害の診断を受けるにあたってのメリットは、今の日本ではかなり地域によって開きがあるように思います。ですから僕は「診断を受けようか、受けてみたい」という気持ちはあるのだけど、同時にかなり慎重に病院や相談機関を選ばねばならないと感じています。実際問題、成人の発達障害に相談に乗れる人というのは、専門家や機関でもまだままならない部分があるようです。できるのであれば、都内に出て診てもらうなり相談機関にいくのがよいそうです。

若干長いメールになりました、意味がわからないところは気にせず深く考えず読み流してください。

@ノ’’  これはかたつむり。

@      ノ’’ いつか殻から出て、まずはなめくじになろう、と考えます。


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自分の中の常識的な部分が表出する時

以下の文章は、とあるサイトのトピックにて「人の心や気持ちをわかる人間になるにはどうしたらいいの?」という質問をある人が書いていたものに対し、僕が返事として書こうとしたものである。

最後の方を書いている時に「……僕が何をこんな、いけしゃあしゃあと……」と思ってしまい、さらに「そうだ、こういうことを書こうとした、っていうのをブログに書こう、ネタになる」と思った。

そういう訳で、以下の文章はそういう経緯の文章である。これを改めて見ると、人にアドバイスをするっていうことはとりもなおさず自分へのアドバイスになるのかな、と思う。なお、結局この文章はそのトピックには投稿していない。



Hさんの自己紹介文を見てきましたが、自分の好き嫌いや勉強したいことやりたくないこと、ハッキリしておられるようですね。

向上していくって上ではそれが一番だと思うのですが、人の気持ちや心をわかるということになると、好き嫌いよりも中立、ニュートラルになることが必要かもしれません。

余談。ただ自己紹介にて「嫌い:マナーがなってない人」とありましたが、その割にはずいぶんわかりづらいタイトル、本文だなと思いました。ネットではタイトルや文章をどう書けばいいか、どう書けば大多数の人が気持ちよく(気分を害することなく)読めるかっていうのは場数を踏まなければわかってきません。ネットのマナーは家庭では教えてくれませんから(最近は学校では教えてくれるのかも?)。心を知る、っていうのもそういうことと同じかもしれませんね。

陳腐ですが、人とたくさん出会う、経験をたくさんする、本を読んでみる、ということぐらいでしょうか。


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カウンセリングに行ったと想定して

想像上で「カウンセリングに僕が行く」ということを書いてみる。書けるところまでとりあえず。

……

カウンセラー(以下カ) 今日はどういったことで来られたんでしょうか

僕 ようやくカウンセリングに来られました。

カ と言いますと。

僕 カウンセリングに行きたい、という事が言い出せなかったんです。親に。僕は働いていませんから、親や世間から見たらただ遊んでるだけの風来坊です。だのに、カウンセリングに行きたいなんて、まるで「親や世間や社会に原因があって、僕は悪くない」というようなものじゃないですか。親からすれば「何が原因で行きたいの?」って思われそうっていうか。第一母はいつも金がもったいない金がもったいないって言ってて、10代の頃に心療内科に通ったこともあるんですけど、母は「なんか誰でも言えるような事しか言わないじゃねえか」と愚痴ってたりしました。

カ それでも今日は来れた。

僕 ええ。「理由とかはそのうちまとまったら話す」って言ったんですけど。母はクリスチャンですから、「神様のことを忘れないでね、いつも神様は毅のそばにいるんだよ」ってしつこかったです。つまりカウンセリングなんかより、神様だという。でも僕はそれがたまらなくいやなんです。

カ あなたはクリスチャンなんですか?

僕 それがよくわからないんですが、ネットの掲示板なんかで書いたり見たりすると、やっぱり僕はクリスチャンではないなあと思うんです。母が学生時代からクリスチャンでしたから、その影響というか、僕や兄は産まれる前からすでに母からキリスト教を信じることを背負わされる運命のようなものでした。だから、物心ついたときには教会にいってて、母と物凄く仲のよかった良きおばあちゃん的な牧師さんがいて……僕は教会にいけば、教会のアイドルみたいなもんでしたよ。みんなから可愛がられて。そんな環境でしたから、自然と神を信じる……というよりも、それ以外の選択肢というのは頭にもなかったかもしれませんね。

カ でも、それが今揺らいでいる。

僕 揺らぎ始めたのは、あまり覚えてないんですが、中学か高校の頃だったと思います。僕は日記のようなものをつけていて、山田花子自殺直前日記というのに引きずられてのことなんですけど、その日記に部屋で一人ふるえながら「僕はイエスキリストを裏切る」とようやく書いた覚えがあります。物凄く恐かったです。今でもその時の感覚はなんとなく覚えてる。それでも僕は度々神頼み的なことはしていましたけど。

カ 今現在は、どういう思いですか?

僕 結局母にとっての信仰なんて、飾りというか自分のアイデンティティを確立するための見せかけだったんじゃないかなって思ってます。はっきりいってどこがクリスチャンなの、って思えるような人だし行動しか取らないんです。神様が守ってくれるよ、とか言っておきながら、タバコがやめられないと言って悩み、僕がいやがるのに平気で換気扇もつけずに煙草を吸う。ダイエットに悩んでて、ばかみたいに高価なダイエット食品を買いこんで、そのくせ高カロリーの菓子パンをむしゃむしゃ食べる。鬱病でもあるし、それを10年も抱えて進歩がないなんて、はっきりいって彼女の行動が僕に神などいないって証明してるようなもんですよ。

カ お父様はクリスチャンなんですか?

僕 仕事をやめてから、異常なほどキリスト教にのめりこみました。仕事をしていた時はキリスト教を信じる母のことなど、どこか……ばかにしているとまでは言わないけど、でも近いニュアンスのようなことは感じました。仕事を退職するのと、祖母の介護と、キリスト教を信じるのは、大体同じ時期に重なっていたと思います。

カ じゃあお父さんは、今は熱心なクリスチャン。

僕 どうなんでしょうね。病気をやたら恐がってて……何か死について深く考えるきっかけがあってキリスト教に目覚めたのかもしれませんけど。病気を恐がって、フードファディズムに走りやすいんですよ。まあ昔からなんですけど、ほうれん草は鉄分がなんとかとか行ってほうれん草を買いこんだり。神様に祈ってればいいじゃないかって思うのだけど。そういえば母と父が会話をしていて、父に母が「そんなこといって、お父さん信仰心足りないんじゃな〜い?」っていったことがあって、父はその語調からカチンと来たのかな、と思ったんですけど、母に「……そういうことにキリスト教出すのはよくないよ」って言いました。僕はクリスチャンであれば、そこで即座に反省して祈りでもすればいいのに、結局父は僕にとってはよくわからないキリスト教の境界線のようなものを自分の中で引いてるんだな、って思いました。父にとっては信仰っていうより、哲学に過ぎないのかな。

カ でもクリスチャンになったんなら、お父さんは昔とは違うんじゃないんですか?

僕 よくはわかりません。昔も今もあまり話しませんから。個人的には、ただ偽善者だった父が、キリスト教という最強の後ろ盾が出来たことで、よりスーパーな偽善者になれただけ、っていう風にしか見えませんけど。

カ 偽善者?

僕 ええ。小さい頃のことなんですけど、母が泊まりで帰ってこないっていう日があったんです。それで毎日母に起こされて学校に行ってた僕を、父が「明日お父さんが起こしてあげるから」っていったんですけど、僕は自分で目覚まし時計で起きる自信がありましたから、「いいよ、自分で目覚ましで起きる」っていって。そうしたらどうしたと思います。僕のことを猛烈にひっぱたいて「お父さんが起こしてあげるっていってるのに!!どうしてそんな事言うんだ!!」って僕のことを怒ったんです。僕は訳がわからなくてごめんなさいごめんなさいとしか言い様がなかったけど、もうその頃には父に対して、そう言語化できて意識してた訳じゃないけど、父は偽善者だっていう思いはありましたね。

カ 他に何かエピソードは?

僕 そうですねぇ、多分あげればキリがないんですけど、最近は母の言動にとにかく苛立ってて、あまり細かいこと思い出せないんです。そうだなあ、父は毎日お酒を飲むんですけど、僕ここ一年ぐらいかな、父がお酒を飲むようになったら、自分の部屋へ避難するっていうことをようやく覚えたんです。父がお酒を飲むと、とにかく下品で饒舌になる。目に見えるものについてどんなことでも言うようになる。それが本当にたまらなくいやで。子どもの時、父はでろんでろんになって酔って帰ってくることがあって、ドタンバタンと激しく音を立てて大声をあげて帰ってくるんです。だから今でも大きい物音を父親が立ててると、不安で怯えますね。たまらないです。

カ お酒を飲むと、どんなことを言うんですか?

僕 まずテレビ見ながら悪口を言いますね。テレビに映る人やものを片っ端から悪く言う。それを僕に同意を求めてきて、僕がわからないような風をすると、「毅にはまだわからないんだ」という風にまるで自分が高尚な感覚を持ち合わせているかのような言い方をするんです。こういう時は殺意を覚えます、本当に。それから僕が太っていたときは「どうしてそんなに足が太いの、首が太いの」だの言ったり。人のコンプレックスのことなんてお構いなしです。それで痩せれば痩せたで「足が細すぎ!!」って怒るんです。どちらにしても僕のやることなすこと怒るんです。そういう表現の仕方しかできない。それは、僕がわからないで、あるいは無自覚でそういう状態になっていると勝手に思いこんでるんです。たとえば、包丁で僕が手を猫のようにしないで指を伸ばした状態で切っていると、「毅、こう切るんだよ」とか言ってくるんですね。で、僕は「ふうん」とか言って無視するんです。すると母が「毅に別にそんなこと言わなくていいの」と父に言うんですが、父は「何言ってるんだ、教えてやってるんだ!!」と言います。僕は、そんな切り方はとうにわかっているのだけど、その食材を今切るのには、その時やってたやり方がよかったのだけど、僕がそれをあえて選択してやっている、というのが父には見えない。父が知っているやり方じゃないやり方で僕が何かをやっていると、ただわからなくてそうやってる、としか見てくれないんです。

カ そういうことはよくあるんですか?

僕 よくかどうかは、今そんなに思い出せないんですけど、例えば僕は自分の部屋にCDが800枚ぐらい、本も本棚2つ分ぐらいあるんですけど、きっちり出版社や作者別順にわけて並べてあるんです。それを父が見て、「ねえ、お父さんが捨ててあげようか?」って言ったことがあって。それには本当に寒気を覚えました。父には、僕が大事にしているもの、っていうのが全く見えてないんです。それで、僕が無駄にそういうものを溜め込んでいると本気で思いこんでいるんです。あるいは、もしジョークだったとしても、僕がそういうことで傷ついていることに全く意識がない。

カ 傷ついている?

僕 小学校の3年生ぐらいだったかな、僕が大事にしていたプラモデルの箱を全部ある日父が捨てたんです。それも「お父さんが捨てといてあげたよ!」って。感謝してね、ぐらいの勢いで言うんです。僕はこのことは本当にすごいトラウマで、僕がCDや本をそれだけ集めてしまうのも、ある意味ではそのことが原因になって、依存症になってるのかなって思いましたね、今。

カ 子どもの時は、お父さんとはどんな関係だったんですか?

僕 小さい頃、僕はパン屋になるって言ってて、お母さんにはおいしいパンを作るけど、お父さんには苦いパンを作ってやる!って言ってたのを、確かな記憶かどうかは定かじゃないけど、なんか覚えてます。その頃から、父には何か敵意のようなものがあったのかもしれません。父と兄は野球が好きでしたから、テレビをよく二人に取られて、それで僕は野球嫌いになりました。僕が球技が楽しめなかったりスポーツが嫌いなのは、長年この父の野球好きが反面的に働いたことが原因かな、と思ってました。それから僕が車の免許を取らなかったのも、父が車関係の仕事をしていたからかもしれないし、特に酒を飲まないようにしてるのは、完全に父が反面教師になってますね。これは確実に言えると思います。

カ お父さんへの敵意っておっしゃいましたけど、他に何かありますか?

僕 僕は小学何年生ぐらいまでかは忘れたけど、思春期の女の子にありがちな言い方で、「くさい」と言ってました。それで父が僕を抱きかかえたので「くさい!」といって離れたら、父が「……何ぃ!?」といって僕を追いかけて全身をひっぱたきました。僕はごめんなさい、もう言いませんとか言いましたけど、その後も結局そういう思いは消えなかったですね。18歳ぐらいまではすごくイヤだった。

カ 18歳のときに何かあったんですか?

僕 18歳のときだったかちょっと覚えてないんですけど、父が脳梗塞で倒れたんです。その時はじめて父は死ぬかもしれない、っていう思いにかられて。結局1週間ぐらいでピンピンして退院してきたんですけど、その時は何かそれまでのものがほぐれましたね。父に対する敵意がふと消えていた。だからといって大事にしなきゃとかは思いませんでしたけど、何かがちょっと変わった感じはありました。けど……。

カ けど?

僕 父は病気して退院しただけであって、父は父で何も変わりませんでしたから、僕の中で何かがほぐれたのに、結局また子ども時代の頃から感じてきたようなことが色々心に積み重なってきて、今では父が倒れる前と心理状況はあまり違いがないです。やっぱり人のものを勝手に捨てそうになるし、人の話はきかないし、自分の価値観ばかり押しつけるし、下品だし……。人のやることや言うことが、父にとってどうでもよければ、「へっへっへ」と笑うんです。「ばかばかしい」と言わんばかりのニュアンスで。その笑い方が本当に見てていやで仕方がない。それで僕が怒ると、「毅、人間そんなに語気を荒げてはいけないよ」と途端に偽善者になるんです。だったら、人間としてそんな人のことをばかにするように笑うな!と言いたくなりますが、もうそこで僕は父に負けてるんです。何も言い返せない。だから僕は父とはもう話したくないんです。父と話さないことが最大の防御になりますから。でも、父と話す絶対量を減らすことで、前以上に父の言動に対して敏感になってきたと思います。

カ たとえば……

僕 母が洗い物をしていて、父がその横から苺を2粒洗おうとしたんです。母は「ちょっとまって、これだけ洗ってから」と言ったのですが、父は「こっちの苺を洗わせてくれる方が早いだろう」といいました。その様子をハッキリ見てなかったからわからないんですけど、この場合で僕に置き返ると、早い遅いはこの際どうでもいいんです。それよりも、まず自分のやってる一連の作業を完遂したい。それから苺を洗ってくれ、という気持ちなのです。自分の領域の行動をまずは誰にも邪魔されずにやりたい。でも父は効率だけの話になっていて、そこにイラッとくるんです。思えば、父は何か自分の用事や予定がうまくいかないような要素が見えると、はっきりといらだったり焦ったりする人でした。色んな場面を思い返してみても、父に必要以上に急かされるようなことが多かった。「急いで!早く!大事なんだから!急がないとダメだろう!」って。ところが自分がどうでもいいことになると、人が焦ってることなんて全くおかまいなし。「はいよー」と言うだけで、やっぱりへっへっへと下品に笑って人のことをバカにする。本当に、鈍器で頭を殴ってやりたい気分になります。

カ なるほど。ちょっと話を変えましょうか、社会や世間について、何か思っていることはありますか?

僕 そうですねぇ……やっぱり僕はこの年齢でひきこもりですから、世間からは「親不孝」「甘えてる」「産んで育ててくれた恩を仇で返してる」って思われるなろうなあ、って思ってます。でも、そういうのって、結局親が教えてくれなければ、育まれない精神なんじゃないんでしょうか?自己責任にしても、じゃあどの辺り、年齢から自己責任が発生するの?って思うんです。そうすると大抵は義務教育が終わったら、成人したら、っていうんだろうけど、でもそのひとくくりが一部の人にとっては辛いものになるような気がします。うまく言えないんですけど、みんな精神が順調に、パソコンで計算したみたいに発達していく訳ではないし、その発達みたいなものをどう見てどう扱うか、っていうのは結局親のやることでしょう。そこを何もしなかった親が、ただ子どもの体が年齢が大きくなっただけで大人になった、とするのはどうかと思います。

カ 自分でも何か思い当たる?

僕 ええ。大人なんだから、社会人なんだから、もう何歳なんだから、男なんだから、っていうのは父には場面場面で言われることがありました。そのたびに「自分は僕のことなんか何も育ててくれなかったくせに!」と感じてました。「どうしてこれが出来ない、理解できないんだ」みたいなニュアンスのことを父に言われることもありましたけど、それは母からも父からもそういう風に理解する、出来るための育みを受けてないからなんです。でも、これが一般論では、本人の努力が足りない、っていうことだけで終わらされるんです。これがたまらない。特に僕は、なんだか発達障害が子どもの頃にあったような気がするんです。ネットや本で読んだだけですけど、発達障害の特徴を見てみると、色々と当てはまることがすごくある。当てはまらない部分もあるけど。

カ 例えば?

僕 自分の気持ちとかを言葉で表現するのがすごく大変でした。作文の宿題なんかは全部母に書いてもらってたんですけど、母が書きあげたものを僕がチェックする。すると、僕は「こうじゃないの!こういう作文じゃやなの!」と納得がいかず、母が何度か書くものの、僕は泣いてしまう。自分が伝えたい、表現したいことが自分の中には概念や表現としてのイメージとかがあるんだろうけど、それが自分ではどうしても書けなかった。何をどう書いたらいいのかわからなかった。今思い出しましたけど、小一の時、教室で作文を書かされましてね、先生に見せたんだけど先生は怒った顔で書きなおしなさいという。僕は訳がわからず、泣きながら何度も消しゴムでぐしゃぐしゃにして書きなおすんですけど、先生に見せると黙ったまま首をふる。僕はもうどうしていいかわからないんだけど、それをクラスメイトが見て「毅どうしたの!ちょっと作文見せて!」といって読み上げる。そうすると、文章がまったくもっててんでおかしい。文法が滅茶苦茶で日本語どころか言葉になっていない。読み上げてくれたことでようやく自分の頭が冷静になって、確かに文章があきらかにおかしいことに気付けたのだけど、クラスメイトが読み上げてくれなかったらまったく僕はそこに気付けなかった。その頃から何か言語表現をすることとかに、何か問題があったのかなあなんて思います。

カ 他にはそんな話はありますか?

僕 祖母の家に夏休みは泊まりに言ってたんですけど、ある夜中、僕は気持ち悪くなって起きた、かな。あまり覚えてないんだけど。それで祖母に何かを訴えるんですが、それがまったく言葉になってない。「ぶるぴゃげべみょぬひゃぶるべるあうるうじゃべろあぶるぶ」みたいな言葉にならない言葉を発して、とにかく気持ちが悪くて唇を指でさわりまくる。祖母が「どうしたの、何があったの、毅ちゃん、落ちついて」といって僕にオレンジジュースを持ってきてくれて飲むんだけど、それでもおさまらないで何か変なことを言っている。発達障害っていう概念を知ってから、ちょっとこのことをふと思い出しましたね。祖母の家に泊まってることで気持ちが高揚して単純に不安に陥っていただけかもしれないけど。

……

ここまで。



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