ブログに何も書くことがないと思っても、それがもし「そのことは以前にもう書いてるし」という意識によってるのなら、つまり「もうネタ切れ」と思ってることによるのなら、解決は単純。
以前書いたことをまた書けばいい。
同じ事を何度も書けばいいと思う。
何度も書けばいいよ、おんなじ内容を。
前に書いたと思っても、それをもう一度記事にすればいい。
何回同じことを書いたっていいでしょう。
書くことが同じことばかりになっても、かまいやしない。
同じネタで何度も文章を書いたらいいんだ。
同じことを繰り返し書けばいい。
似たような内容、ネタを反復すればいい。
変わりばえのない文章を書き綴ればいい。
◇
■想像上の誰か:「そんなことして、意味や価値があるの?」
意味や価値を問うならもはやブログそれそのものからでしょう。
困難は、
「ええ!?そんなものに興味があるの!?そんなシュミがあるの!?」
と
「ええ!?どうしてこれに興味がないの!?普通興味あるものでしょ!?」
の二つ。
このセリフの前後には「日本人なら(なのに)」「人間なら(なのに)」「男なら(なのに)」「女なら(なのに)」「○○歳なら(なのに)」「あなたはこうなのに(こう見えて)」などなどがつく。
「どうしてこれが好きじゃないの?変わってるねぇ。みんな好きなのに。ちょっとおかしいんじゃないの。」
「そんなもん好きなのか。くだらないものを好むんだねえ。気持ち悪い。よくそんなの好きでいられるね」
よく「そんなの自分次第じゃないか。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。それでいいだろ」というが、実際には邪魔してくる人の方が果てしなく多い(そして僕も他人に対してたくさん邪魔してきた)。
「好きでい続けることを許可しないぞ!好くことをやめろ!」
「好かないでい続けることを許可しないぞ!好かないことをやめろ!」
自分で自分が好きなものを守り続けることで、自分の趣味世界はどんどんディープで保守的になっていく。
するとその様子をちゃっかり見つけた人が、また騒ぎ立ててくる。そうし続けることをやめさせようとする。
ますます誰にも見せないようにして、ディープ&保守。
それでも侵入してくるのだから、もうひきこもりになるか失語するか打ちのめすしか方法はなくなってしまう。しかしそれらどの行動をとっても、「そんなもん好いてるから&これを好かないような人間だから」という部分に回収されていく。
◇
アヒルのガアガア −イキアタリバッタリおがたけ創作童話−(2009/10/09)
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-1036.html
以下の文章は、昨年の4月あたまに、僕が埼玉県自閉症協会事務局に問い合わせメールを送信したことに対しての、埼玉県自閉症協会事務局からの返信内容。
一部修正削除、赤い部分は僕のメールの引用部分
いまでこそ「アスペルガー症候群ではない」と思っているが、この頃は僕は自分をアスペルガー症候群だと思い始め、動揺していた時期であった。ゆえに僕から送信したメールの中でも同性愛カミングアウトはしていなかった。
この数ヵ月後、「同性愛ゆえに発生する生きづらさを原因とせず、アスペルガーを生きづらさの根源にすえるのは無理がある」と思い始め(たぶん)、色んなひきこもり支援団体やグループに「同性愛の想定はあるか」という同一内容のメールを送付する。
※こうして公開するにあたって特別意図はない。単純に「そういやこんなメールもらったな」と思い、なんとなく公開してみただけ。
◇
takeshiさま
はじめまして。
埼玉県自閉症協会にて事務局をしております竹田と申します。この度はお問い合わせありがとうございました。
まずはじめに・・・私ども埼玉県自閉症協会は、自閉症児・者の子供を持つ親が中心となって運営している「親の会」です。役員をしている私も同様であり、専門的知識を有しているわけではなく、ごく普通の親でしかありません。私どもが存じ上げている限りの情報はお伝えすることができますが、専門的見地からではないということと、takeshiさまのことを充分存じ上げない状態でいい加減なお答えはできないので、一般的なことしか申し上げられないという2つの点につきまして、ご了承いただけますようお願いいたします。
takeshiさまのメールを拝見いたしました。まずは、一歩前に進もうと考え行動されたtakeshiさまの思いに敬意を表します。
> 自分はアスペルガー症候群の特徴にどれもこれも当てはまる、29歳のひきこもりの男です。アスペルガーを知る前は、社会不安障害かもしれないと思っていましたが、子供の頃からの特徴などを含めると、アスペルガーっぽいかも、と思いはじめました。病院にいくべきだろうか、と思っているのですが、どの病院にいけばいいのかわからないのです。アスペルガーなり発達障害なりを調べてみると、現状としては医者にいっても成人の発達障害ってきちんとは対処してもらえないのかも、と感じてしまっています。まずはどうするべきなんでしょうか。川越の発達障害支援センターは知っていますが、運転免許を持っていないので、途中からバスに乗っていかなければならず、バスが大変苦手な自分としては難しいのです。
そうですね・・・現時点では、takeshiさまご自身に発達障害による生きづらさがあるのか・ないのか確定していないので、この先どのようにしていったらいいのかわからないのが現状ですものね。いくつか考えられることを挙げてみますので、よろしければ参考にしてみてください。
1.まずはしかるべきところに相談してみる。
a)県発達障害者支援センター「まほろば」にTEL相談をしてみる。
発達障害に関することなら、まほろばにご相談ください。まほろばへのご相談はTELでも大丈夫です。私どもに送ってくださったメール内容はとてもまとまっていてわかりやすいので、そのように話してくださればよいかと思います。また、どのような部分でアスペルガーではないかと感じているのかという具体的な例や、子供の頃どうだったか・どう感じていたかなど、ご自身でわかる範囲での具体的な例をいくつかお話できるようにまとめておくとよいかもしれません。そのうえで、今後どのように進んだらよいかの具体的なアドバイスをいただけるのではと思います。成人期の発達障害診断ができる機関についても、センターではいくつか情報をお持ちではないかと思いますので、おたずねになってみてください。
b)保健所に相談してみる。
県内の保健所ではひきこもりの専門相談を行っています。福祉保健総合センター・保健所が管轄になります。こちらはあくまでひきこもりの状態像に関しての相談かとは思いますが、1か月に1回だそうです。
2.診断を受ける。
成人期の発達障害診断ができる機関の情報を得られたら、予約を取って受診してみてください。成人期の発達障害診断ができる機関については、発達障害を診断できる旨をネットで公開してしまうと、日々の診療に支障をきたしてしまう程お悩みの方が多い状態ですので、おそらくネットでの検索は難しいかと思います。
診断を受けるということでお悩みの部分がはっきりしますし、この先どう進んでいったらよいかという方向性もわかると思います。但し、成人期の発達障害診断ができるDrは限られており、予約を取ってからの待機期間が長い可能性があります。(診察が何ヶ月か先になるかもしれません)発達障害はご存知の通り成人期になって急になるものではなく、幼児期から状態像を呈しているはずですので、幼児期〜学齢期の情報というものが、診断に際して大変重要になってきます。診察の際には、可能であれば親御さんに同席していただくと幼少時の様子などがわかり、診断の大変重要な参考になるかと思います。親御さんの同席が難しいようであれば、母子手帳や小中学校等の通知表、作文や絵など幼少の頃の様子がわかるものをお持ちいただくとよいでしょう。もちろん、そのようなものが準備できない場合でも診察は可能です。
そしてその後について・・・例えばですが、社会参加を目標にしてまずは居場所のような所をみつけて参加してみるとか、就労にむけての相談をしてみるなど・・・は、takeshiさまご自身に発達障害による生きづらさがあるのか・ないのかがわかった時点で、ゆっくりお考えになってもよいのではないかと思います。
> ネットで検索できる限りで調べても、ひきこもりと発達障害のかけあわせで相談や支援しているものは埼玉県ではとてもなさそうなのです。京都にはそれっぽいものはありました。
そうですね。最近では、ひきこもりでお悩みの方の中に発達障害を根底にお持ちだからこそ社会参加が難しくなってしまっているという方もおられるようになりました。ですので、ひきこもり親の会でも発達障害について考えたりということもされているかと思いますが、同じひきこもりという状態像であっても、発達障害の有無によってプロセスも違いますし、対処法も違ってきますので、ひきこもりと発達障害とを一緒に相談・支援というのは難しいことなのではないかと感じています。
私たちも親の立場として、まだまだ足りていない成人期発達障害者への支援体制構築に向け努力してまいります。このようなお返事しかできず申し訳ございませんが、また何かありましたらメールください。
「絵葉書」
絵葉書が届いた
この人は誰なのだろう
住所も名前も見覚えがない
僕が忘れてしまった人だろうか
なぜこの人の記憶に僕はあったのだろう
僕を覚えているこの人は僕をどう思っているのだろう
なぜこの絵葉書を
返事をするべきだろうか
誰でしたっけと問うべきだろうか
このまま見過ごしてしまっていいだろうか
彼の人違いだったとして
先日、2ちゃんねるのヒッキー板のブログスレに、宣伝してみた。
ヒキのブログを晒すスレ
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/hikky/1249608488/9393 名前:小笠原毅 ◆S3aGD2zM9U 投稿日:2009/11/22(日) 15:28:52 ID:lKmGwOGl0
小笠原毅と申します。「塵も積もればヒキコモリ」なるブログをやっています。
よろしくお願いします。┌○ペコリ
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/
それに対して、4つほどレスと感想(?)などが書き込まれていた。
そのうちの、98番のレス内容に反応して、ここで思うことを書いてみる。
以下98番のレス内容。
98 名前:(-_-)さん sage 投稿日:2009/11/26(木) 15:49:48 ID:???O
ゲイとしての被害者意識みたいなのを書く前までは良かったんだけどなぁ
同性愛カミングアウトする前は、僕のこのブログをどのような心境で読んでもらってたのだろうか?
それ以後続く現在においては、どのように心境が変化したのだろうか?
それがどうしても気になってしまう。
それすなわち、僕が現実において、同性愛(など)であるがゆえに常に怯えるしかなかったりわかりようのない謎だったりした、「ゲイバレすること=カミングアウトすることで、相手の僕に対する対応や気持ちや見方が変化すること」それそのものだから。
このブログでカミングアウトして以降、そうした反応が出てくるんじゃないかと予想して結構ハラハラビクビクいたのだが、そうした反応はほとんど見えなかった。
そうした反応をする人であれば、やはり「あれ、ゲイだったのか。じゃあなんかちょっと違うじゃん……」とか「え、じゃああれもこれも同性愛が前提だったのか」等々と思う人であり、僕(=同性愛をカミングアウトした人など)への対処としては、ただ単純に離れていく(僕に距離をおいて自ら離れていって”くれる”)だけなのだろうか。
で、そうして離れていくから、こちらとしては物理的に反応が見ることができず、「どうして離れていってしまうのか?」という気持ちが残ってしまう。「ちょっと待って、理由を訊かせてくれ」とはいっても相手は去っていってしまい、「なぜ?どうして?」感が、なおのこと自分を《同性愛によって発生する意識》の中に封じ込めることに繋がる。
想像上の誰かから「その繰り返しが人生、人生における問いなんですよ」なんていう人生訓がきこえてきそうだが……。それを同性愛を素材として言うのは、同性愛者同士のグループ内でしか適用できない。
「人と人との出会いと以後の(別れも含めた)関係性」には、すでにある種の自明の前提があって、その前提をこなした先で、人間における諸々の要素や属性で仲を深めたり距離を置いたりするのだから。
はじめからおかれていない前提で迷う者は、はじめから右往左往してしまう。
■想像上の誰か:「大事なことを言うことで、離れていく人もいれば、関係を続けてくれる人、関係を考え直してくれる人もいます。人生とはそうした、人と人の関係性の取捨選択ではないでしょうか。」
そりゃそうなんだけど……。離れていく人が純粋に離れていくだけじゃなくて、ウワサをウイルスみたいに広めてから距離を置き、こちらに対して人を増やしながら断罪的立場を取るようなことが、想像できすぎてしまって……。
団地の奥さん連中が、新しく越してきた若い奥さんをみんなでジワジワ見えない形でイビルような、あんなイメージというか……。
◇
もちろん、この>>98の書き込みの人が言いたいのが、
「以前とは違って、ゲイ被害者意識をギャーギャーわめきたてすぎ。」
というようなことに過ぎない場合もあるけれど……。
◇
■想像上の誰か:「っていうか、そういうこと以前にこのブログは別にそんなたいそうなものじゃないでしょう!どんだけ自分とこのブログが好きなんだよ。必死すぎる。気にしすぎ。」
■想像上の誰か:「『え、この人そんな人だったの』と思ったら、やっぱりその人からは距離をおきますね……。そうした人の存在を想像して意識することで、自分の中でも人を選ぶという作業が出来るようになるんだと思いますよ。」
■想像上のLGBT啓蒙系:「そう、そのぐらい同性愛というのはヘテロ社会において想定されていない!だから私達はヘテロ社会に対して戦うべきなのだ!」
■想像上の>>98:「ちょwww俺の意識とは全然ちがうよその考察www 自分の考えで突っ走りすぎなんじゃない?」
◇
もし、「実は以前から読んでいたけれど、カミングアウトして以後はあまり共感ができなくなった。自分も小笠原さんもひきこもりではあっても、やっぱ自分はノーマルであって、ホモじゃないし……。」みたいなことを感じてらっしゃる方がいらっしゃいましたら、名無しでいいのでコメントしていただけると幸いです。
「槇原敬之がゲイだと知った後は、それまで聴き続けてたことをちょっと後悔したし、歌詞ももう、そういう事の内容にしか捉えられなくなってしまった」ということもありますし。
僕も、トーベ・ヤンソンが同性愛者だったことを知って、「あー、だからムーミンってこんな感じなんだ……。」と思ったりすることが普通にあるので。
◇
ところで、こうして98をネタ(?)に記事を書いてしてしまったことをヒキ板のブログスレに報告したほうがいいのかそれとも別にしなくていいのかと考えるけど、「あのスレはあくまで晒しスレだから」という前提に甘えて、報告はしないでみる。実際には怖いだけ。
正直なことをいうと、
「>>98
おい、ブログにあんたへのレスが記事として書かれてるぞwww」
みたいな自作自演をしてしまいたい気持ちもある。
過去に何度も書いている事だけど、考えるとどうしても気になってしまうので、また改めて書く。
今年の前半、無性愛者の方と出会う機会があった。
以来、「自分は性愛が有る者、有性愛者なのだ」という意識がある。無性愛者に対して、自分は有性愛者であるという意識。
(※今気になってGoogleで検索してみたのだが、「"有性愛者"」で検索してみても僕の記事もろもろを含めても14件しか引っかからない。
http://www.google.co.jp/search?client=opera&rls=ja&q=%22%E6%9C%89%E6%80%A7%E6%84%9B%E8%80%85%22&sourceid=opera&ie=utf-8&oe=utf-8)
だから、性愛の区別の前提として設定すべきなのは、
「有性愛者/無性愛者」
がいい、という気分が以来どうしてもある。
◇
僕は区分としては同性愛者になるわけだが、この「同性愛者」という表現には、少し違和感がある。
違和感の理由は色々考えたのだけど、いま現段階での理由としては、僕にとって男性は異性的存在である、という心性に由来する気がしなくもない。
僕の身体は男性である。が、意識としては男性とは自認しきれない。女性だという訳でもないが、「内面は女性寄りです」ということに抵抗はない。
つまり、僕はある種「異性として男性が性愛対象」という感覚があるということ。言い方を一般レベルの言葉に落としてものすごくわかりやすくすれば、「僕は男だけど、気持ちは女として、男の人が好き」みたいなことに近い感覚があるということ。
(ただ、女性も同性という感じはしない。)
そのため、厳密に言うなら、僕は「内面は異性愛者」。
こうしたことから、僕は同性愛者であるというよりも、
「男性愛者」
と言ったほうがしっくりくる気分。「性愛の対象が男性である者」。
ただしこの意味で「男性愛者」となると、ヘテロの女性も「男性愛者」ということになる。
そして、ビアンの人は「女性愛者」となり、ヘテロの男性も「女性愛者」となる。
「男性愛者」「女性愛者」という表現をとることにより、ヘテロもゲイもビアンも性愛対象が同じであるという認識に繋がるんじゃないんのかな。
◇
まとめ。
性愛区分→有性愛/無性愛
性愛対象による区分→男性愛者/女性愛者(両性愛者、全性愛者はそのままでいいだろうか?)
◇
無性愛者の存在が確実に可視化された時がくるとするなら、社会や世間は無性愛のその”原因”をやっぱり脳や発達障害に求めそうで、イヤ。
◇
2009-06-11 14:41
無性愛?非性愛?
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-754.html2009-06-21 20:16
「有性愛と無性愛」という概念提唱
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-783.html2009-08-11 09:58
【男性愛者・女性愛者】メモ・同性愛者、ゲイという呼称にどうも違和感があるので、いろいろ考えてみる(ただし通常差別語として嫌悪するゲイとは違って「ホモ」にはさほど違和感ない)
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-905.html2009-09-27 13:56
■男性愛・女性愛・両性愛、有性愛・無性愛 〜性愛の言葉再定義!〜
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-date-20090927.html
茅原伸幸 「錯視のシルエット」
http://www.procreo.jp/labo/labo13.html
これ、僕は一度はまってしまうと、女性のシルエットがいつまでも背中を見せず、右に足をふったり左に足をふったりするようにしか見えなくなってしまう。行ったり来たりしてしまう。
背中の所在を見出すと、回転がはじまる。背中を無視すると、いったり来たりが続く。
◇
同じ方向に回るようにしか見えない人で、逆方向に回してみたい人には、コツがある。
やり方は、このGIFアニメを薄目で見る。
そして自分の目の前に手を出し、指先を上にして手のひらをややすぼめるようにまるめて、見えている回り方とは逆の方向に何度も手をひねるようにして(電球ランプを交換するときの動きのように)、「逆方向にまわれー。逆方向にまわれー。」と思ってやってみると、ふとした瞬間逆方向にまわりだす。
つまり、このGIFアニメの女性を自分の指でヴァーチャル的にムンズとつかむような感じで、シルエットを自分の手で強引に「ドリャアアー」と力技で逆方向にまわすようにイメージしながらやると、逆方向に回りだす。実際に、ちょっと手に力をこめて「グググッ」とこじあけるような、そんな風にやるとうまくいくと思う。
この方法でどうして逆方向に回り始めるかというと、多分なんだけど、このGIFアニメの女性シルエットの足や手の動きと、自分の指の動きとにイメージ的に同一性が発生して、そのように認識するものだと思われる。
エヴァンゲリオンでいえば、パイロットとエヴァのシンクロ率をあげるようなもの?
◇
ところで、エヴァンゲリオンのエンディング、綾波レイの回るシルエットにしても、あまりよく見なければ同じことがおきる。
http://www.youtube.com/watch?v=6K5NQ3VqSSgよくみれば綾波レイの顔や身体がちゃんと線で書かれているため、実際には右に回っている。
しかし線がよく見えない画質や状況であれば、左に回っても見える。
◇
という訳で、右脳左脳はまったく関係ない!
「人の考え方、解釈。それは人それぞれ、色々あっていい。」
その考え方、解釈には、「人の考え方、解釈は人それぞれ、色々あってはいけない」という考え方、解釈も認めることが含まれてなければならない。
そこを含まないなら、「人の考え方、解釈。それは人それぞれ、色々あっていい」はある種の排除に繋がる考え方だ。
だから、言うなら、
「人の考え方、解釈。それは人それぞれ、色々あっていい。
だから『人の考え方、解釈は人それぞれ、色々あってはいけない』という考え方、解釈があってもいい。
ただそれが権力ある人間の考え方、解釈であるなら失墜させようと思うし、他人からそうした考え方、解釈を押し付けられるのであれば、断固拒絶する。
『人の考え方、解釈。それは人それぞれ、色々あっていい。』というのは、そうした関係への参加宣言だ。」
といった感じだろうか?
僕は、「同性愛や他の異性愛以外のセクシュアリティを考える、問うということは、異性愛そのものを考えなおすこと」というような結論を、一応持っている。
だとすれば、僕も異性愛的な要素について、自身で振り返って考えなければならなくなる。
■想像上のLGBT啓蒙系:「いいんだよ、セクマイは考えなくても!散々足を踏みつけられてきたんだから!差別や偏見にさらされてきたのはいつだってこっちだったんだから!ヘテロ連中に考えさせさえすればいいんだ!!」
でも、考えてみる。
◇
■女とヤれるか?
答えは、NO。出来ない気がする。
■なぜヤレない?
身体が女性だから……。女性の多くは確実に女性性を引きうけているから。
■ここに一枚の画像がある。上半身裸で、下はジーンズをつけている男性の画像。すごいイケメン。エロイ体。オナニーできる?
ものによっては出来そう。
■しかし、ジーンズを脱いだ画像を見たら、実はその人は”まだペニスをつけていない”だけで、性別適合手術を受けた元・女性だった。どう思う?
「うあー、ガッカリ!」と思う気がする。「抜いちゃった……」とも思う気が。
■「この人イケメン!」と思ったけど、実はその人女性だった、みたいな経験ない?
ある。テレビで顔だけ見て「お、(男として)かわいいな」と思ってよくよく見てたら女子アスリートだったり。
■もしその人の身体が男だったら、よかった?
よかったんだと思う。
■女性だったことでのガッカリ感は、何に根ざしてるの?
胸があること。ペニスがないこと。股間に穴があいていること。声が高いこと。見た目や雰囲気が男の子っぽくても、やっぱりどこか女性の性役割を引きうけてキャピキャピしてる感じに見えること。
■もし、ケイン・コスギやチェン・ボーリンが、「実はなんらかの理由でペニスがありません」とかいう事実があったら?
ガッカリしそう。
■ケインやボーリンの妄想では、もうオナニーできない?
うーん……できなくなりそうな気も、しなくもない。
■できなくなりそうな気がする?
うん。できそうな気よりも、できなさそうな気の方がする。
■じゃあ、そういうタレントとかじゃなくて、性愛的に好きな人、あるいは付き合った彼氏が、例えば事故とかでペニスがチョン切れてしまってなくなってしまったら、もう付き合えない?
それはない。
■本当にない?
うーん……。厳密に言うと、少なくとも、過去に付き合った元彼の中で、一人だけはそんなことはない、かな?
■どうしてその一人だけが?
なんか、過去付き合った元彼の中でも、本当に互いに好き合って本当に「交際している」っていう感覚があったから、かな……。
■その一人以外は、もし何かしらの事故でペニスがチョン切れちゃったりしたら、気持ちがさめてしまいそう?
有り得る……かもしれない。
■どうして?
さっきも言ったけど、その一人は本当に「交際できた」感が強くて、いまだにいとおしい感じを持ってる。それ以外の元彼については、なんか肉体関係だけだったり、都合よく呼び出されたり、とても交際しているとは言えない感じばかりだったような。
あと、その子はもう見た目も中身も完全に男の子なんだけど、男性というよりは「男の子」という感じで、男性性がガチガチに強い訳でもなかったせいもあるかもしれない。
■中性的な男の子だったっていうこと?
いや、そうじゃない。そうじゃなくて、気がやさしくて、おっとりしてて、お茶目で、どこか純粋で、どこか負い目を覚えていて……。そんな感じの子だった。
■ああ、じゃあちょっと弱さのある子だったと?
そう。そんな感じ。
■その子との関係では、ちょっとタチだったんだ?
そう……ね……。そうだったかもしれない。元彼の中でも、唯一「傷つけちゃったかもしれないなあ、悪いことしたなあ」という思いがある。他の元彼に対しては、「よくも捨てたな」「裏切ったな」「もてあそびやがって」という思いがちょろちょろある。
■話を戻す。もし、その子と同じ布団で一緒に寝ていて、翌朝その子の身体が女性の身体になってしまっていたら?
驚くだろうねえ。
■で、その子とはもうヤレない?
うーん????どうだろ???
■ヤレそうな気がする?
ヤレ……そうな……、気が、……。うーん、……どうだろう……???勃起できる自信は、あまり覚えない……。
■では、もしその元彼との最初の出会いの段階で、つまりその元彼がそもそも女の子だったら、好きになった?
ならなかった。女の子なら、好きにはならなかった。
■どうして?
胸があるから。ペニスがないから。股間に穴があいているから。声が高いから。女性の性役割を引き受けてるんだろうな、って思うから。
■ということは、性愛においては、まず最初に、身体でのより分け作業があるわけだね。
うん。少なくとも僕にとっては。
■子供の頃はどうだったんだっけ?
小6までは、バイセクシャルだった。小1から小6まで同じ女の子が好きだったんだけど、その間にもちょいちょい別の男の子、女の子を一時的に好きになったりしてた。
■最初の身体でのより分け作業が……。
なかったかもしれない。いや、ないに近い状態だった、というのが厳密かも??
■身体でのより分け作業が確定し始めたのはいつ?
やっぱり小6まで好きだった女子に気持ちが覚めて、男子の先輩を好きになりはじめた中1からなのかなあ?
■身体が変わり始める時期だね。
そうそう。自分も小5から陰毛が生え始めて、恥ずかしくて剃ったりしてたし、同時に、「みんなのアソコはどうなってるんだろう?」という意識が出てきたような気がする。それは、「自分のはこんなんなっちゃってるけど」というのに端を発してる。
■みんなのアソコを見たかった?
うん。同じ男の子だけね。どうなってるんだろう、毛が生えてるんだろうか、皮が剥けるんだろうかとか。あと腋毛生えてるのか、とか。あと僕の世代はちょうど中1か中2ぐらいでブリーフからトランクスへの移行期だったので、みんなはブリーフだろうか、トランクスだろうかというのもあった。
■でもそういう話、クラスの男の子同士で話したりして情報交換したりしない?
そういう話をするような仲になるより前に、僕は嫌われちゃったりいじめられたりしたので。「ホモ」って言われて。みんなはそういう事してたみたいだったけど……。中1の時、Hって奴はトイレでみんなに陰毛を見せたりとかしていたらしい。僕も見てみたかった。
そいつの陰毛のことを、みんなで「たわし」って言ってたんだけど、結局僕はそこに参加してなかったから、多分陰毛だとわかっていたのだけど、「なんのことだろう?」というような態度を取ってた。そんである時、Tって奴が「たわしのことなんだかわかってないの、毅だけだよ!」と言ってきた。ポカーンとした表情をしてみせたけど、陰毛のことだとわかってた。そういうコミュニケーションの輪の中に、入れてなかった。
■もしかすると、先の話の身体でのより分け作業っていうのも……。
うん。この頃から始まった、「みんなの身体はどうなってるんだろう」から端を発して、「みんなの身体が見たい、ただし自分と比較するために男の子の身体だけ」という風に繋がったのかもしれない、ってちょっと思った。
■じゃあ、もしそこで、みんなの陰毛を確認しあうようなコミュニケーションに入れてたら?
「みんなの身体はこうなってるんだ。違いがあるんだ。あるいは同じなんだ。」というので納得して、男の子の身体に謎を求めて追いかけるようなことには、ならなかったかもしれない。ヘタ(?)したら、男の子の身体についてはもう納得してしまって、女の子の身体の謎の追求に走ったのかもしれない。
■つまり?
中学の時に友達同士で陰毛確認し合いっこなんかやってたら、今頃ノンケになったかもしれない、っていうこと。あるいはバイ、あるいは異性愛をベースにしたフェチに走ったか……。
■じゃあ、やっぱり思春期ぐらいにはヘテロ矯正教育をするべきなんじゃ?
それは違うでしょう。これはあくまで僕の場合に限る。
でも僕のケースといえるかもしれないことを一般化するように言うなら、「性的指向は変わらない」「性自認は変わらない」というのは、つまり「思春期に決定されたこと、感性等は、洗脳でもしない限り、ほとんど変えられない」ということの範囲内なんじゃない、って言う感じはする。
・
・
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・
・
同性を好きでい続ける事には困難があまりにもつきまとう。
その困難さは、その対象を好きだという事を世間や社会や文化に対して表明するのが許可されない度合いの高さである。
表明許可度
表明許可性
表明許可指数
暗黙の表明許可制度
あえて単語にするなら、そんな感じだろうか。アタマに被をつけて「被表明許可」などと言ってもいいかもしれない。
そして、表明許可がおりないものは、もちろん同性愛に限らない。近いところで言えばオタク、腐女子、ひきこもり、ニート。
細々したことを言えば例えば「毎日ぬいぐるみと会話していること」、例えば「仕事のない休日はネット漬けで廃人化していること」、例えば「野良猫を見つけたら『あ、にゃんにゃんだー!』と叫んでしまいたいこと」などなど。
《表明許可》の下りにくさ。
《表明許可》が下るより前に表明してしまうこと。
《表明許可》の風潮を無視して突っ走ること(=敵、アンチを作る)
《表明許可》も何も意識されていない国へ移住すること。
※すでに似たような概念がもしあれば、どなたか教えてください。山本七平の空気の研究とかそうなのかなとかは目星をつけてますが……。
「同性愛などを告白するのは、相手との信頼関係が十分に出来上がってからすべきでしょう」
通常の悩み相談などであれば、信頼関係が出来上がることで話せる関係性になる。
しかし、同性愛などの場合、まず最初に同性愛を言わない間柄で作り上げていった先での信頼関係では、ますます言えなくなることの方が断然多い。その理由の一つには、同性愛という属性は目に見える形での状態を取らないため(この点ではオタクやマニアなども近いところがある)。
また、相手が同性だった場合には、あくまで僕の場合だが、信頼関係の果てに、相手を性愛的に愛してしまうパターンが割合多い。このどうしようもないジレンマ。
信頼関係を築けた上でのカミングアウトは、ほとんど博打に近い状態のものになってしまう。
◇
関係を作ることは、すでにヘテロの感性・陥穽の方向性で決まってしまっている。同性愛というものなき信頼関係の成立は、その方向で向かって作られる。
「え、あなたが同性愛者だなんて想定していなかった(そんな想定で関係性を作っていたつもりはない)」
そう思われる事がしばしばで、同性愛をカミングアウトした暁には、こちらとしては互いの関係性の再構築をなさなければならない。
よく「同性愛でも異性愛でも、あなたはあなた。関係は変わらない」と言うことがあり、非常に言葉としてはいい響きだが、これは本質的に違うことだ。
「あなたと関係性を変えていきたいから、カミングアウトしたのだ」ということ。
多分この「関係性を変えたいから告白した」ということは、同性愛に限らないんじゃないか。
◇
「男同士なんだからさ、なんでも言えよ」
男同士だからこそ、言いたいのにいえないことがありすぎるんだよ。
◇
あくまで僕の場合において、同性同士、つまり僕と相手が男性で、信頼関係を作るとなると、好きになってしまう可能性が高い。
しかし僕は解剖学的身体は男性であるため、必ず男性集団、男性グループ、男性圏に自動的に入れられる。そこで関係性を作れ、ということ。
僕だけが女湯に入るというようなマネは、許されない。
◇
男女から成り立つ親。ヘテロセクシズムを継続するための家族というかたち。
同性同士の性愛関係が現実ではほとんど見えない世界においては、生れ落ちる時点ですでにヘテロの感性・陥穽に乗ることの始まりだ。
◇
それなりの信頼関係の果てに、同性愛をカミングアウトする。関係性を再構築していきたいと思う。
うまく行かなかったら、こちらが去らなくてはいけなかったりする。
そのうまくいかなさが、「同じ過ちを繰り返すのではないか」と怯えてしまい、なおさら同性愛など絶対に言えない。
◇
隠しておけるものなら、隠しておきたい。
しかし、異性愛=正統であるということを見せられ続ける世界では、隠しておいている状態も相対的に引っ張り出されてしまうことになる。
隠している同性愛を年中突っつきまわされるような感覚。
もちろん、周囲の世界はその突っつきまわしを自覚的にしているつもりはない。
しかしだからこそ、ますます引っ張り出されて突っつきまわされてるような感覚にしか陥らなくなる。
だがこれも、「個人の資質の問題(隠しておけない心性のアンタが悪い)」と言われてしまう。
◇
だから、ヘタに知っている人にカミングアウトするよりも、全然知らない人にいきなりカミングアウトしてしまう方がよかったりする場合も多い気がする。
現実の日本の社会生活では、そんなことは出来ない訳だけど……。
身の上を知ればこそ明かせない悲しみもある
通りすがりの人なればこそ言える罪状もある
(「カーニヴァルだったね」中島みゆき)
◇
先日、僕のメールが掲載された不登校情報センターのサイト内における松田武己氏からの最終回答が、僕あてに氏から最後に送付されたメールとあわせて、ただただひたすら腹立たしい。
不登校情報センター>質問と回答>五十田 猛への手紙と返事・目次>(11)同性愛、ひきこもり、そして自立
http://www.futoko.co.jp/shitsumon_to_kaito/tegami_11.html不登校情報センターサイト内に「同性愛、ひきこもり、そして自立」と言うタイトルで僕のメールが掲載される (2009/11/23)
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-1173.html「想定してもらえるようには一応なった」だけでは腹立たしさが収まりきらない。ただその腹立たしさは、僕の個人的な想定を超えたこと=連絡なくひきコミやHPに載せられた事に起因しているのか、それとも僕の中でまだ言語化できない正当な言い分によってるのか、どちらかはわからない。
話をかなりズラされた上で松田氏の見解を結論として出されてしまった感じが正直ぬぐえない。「スペースにてやりとりが少しあった」「パンフレットは見られないけど」等々の状況程度でしかないのに、のうのうと人生訓を指南しているあたりに苛立ちや腹立たしさがあるのかもしれない。もっとも、最初の苛立ちはひきコミやらナントカ学園のパンフレットを無造作に不登校情報センターが送り続けてきていることなのだが……。
が、こういう作業をするということは、こういう痛みの歴史を反復するしかないのだろう。ある意味では松田氏はその役割を、すなわち痛みを与える役割をわざわざやってくれているとも言える……というのは氏がアスペルガーを自認していることを僕は知った上で言うのだから、ちょっと皮肉にすぎるだろうか。氏は単に天然ボケなのではないか、と推測している。
中島みゆき「DRAMA!」、現時点(※ラスト13曲目を聴きながらこれを書いている)での総評としては「退屈」。「なんかアレンジが同じすぎるなあ……」というか。「まとまってきちゃったなあ」というか。
特に、前半SEMPOのための楽曲6曲が、なんといったらいいか、「普通っぽすぎる」。
僕は中島みゆきのアルバムではもともとWINGSシリーズや夜会カバー、セルフカバーが(発売されるたびに毎回ファンが言いがちなように「カバーするにあたってよりにもよってこんなアレンジ、歌唱法にしなくても!!」という七転八倒がもちろんありながら)結構好き。あんまり評判がよくない「おとぎばなし」も、さだまさしとのデュエット「あの人に似ている」を抜かせば、かなり好物なアルバム。
中島みゆきを聴くようになったキッカケは、「浅い眠り」で、以後ちょっと順番があやふやだが、「BEST SELECTION 2」→「EAST ASIA」ときてハマり、「時代 time gose around」を購入、それでハマリが確定した。
「時代 time gose around」でハマリが確定したのは、色んなタイプの曲が入っていて、まるでベスト版のようになっていたから……多分。声色を確実に使い分ける感じがしてきたのも「時代 time gose around」からだと僕は思ってる。
僕はみゆきファンとしてはそうした「浅い眠り」世代であり、90年代の瀬尾一三がアレンジをあれこれ頑張っていた(?)時期をリアルタイムで味わってきたので、そうした瀬尾一三のバラエティ豊かなアレンジ世界と、中島みゆきの声色使い分けの歌唱から、僕の中での中島みゆきのジャンル分けはどこか「民族音楽」的だった。
民族音楽的っていうのは、楽曲で言えば「雨月の使者」とか「紅い河」とか「ジェラシージェラシー」とかをさしている。あるいは、「サウンド、アレンジが結構マニアック」とでも言おうか。
そういうのが好みなので、今回のこの「DRAMA!」はちょっとまとまりすぎていて、退屈。もしかしたら一番好きじゃないアルバムになるかもなあ、と思ってる……けど、聴いてるうちに段々よくなる「味わいスルメイカ」なアルバムかもしれないという期待も。だって3150円もしたんだもん!!
◇
僕における中島みゆきファンとしての史上、まれに見る「退屈」だというこの感覚。
もしかしたら、僕自身が感情が平板になっている可能性は、一応ある、と考えている。
この「DRAMA!」はすでに11/17には発売していたのだけど、購入することをすっかり忘れていた。そして「まあいいか……買える時に買えば……」などとも考えていた。
欲望が枯れて来ているのだとしたら、まずい兆候だ。
が、単純に「いよいよみゆき熱、自分が好きなものに熱中することだけではなくなってきた」という事だとすれば、”世間的”には”いい傾向”とも言える。
一応どちらの傾向としてもチェックしておくか……。
◇
あるいは、今ちょっとLast.fmというサイトで本当に、全然知らないフランス語アーティストを発掘するのにハマってしまっていて、そのジャンルバラバラ加減&超絶オムニバス的聴き方が今は僕の中に深く根付いてしまっていて、「フランス語音楽!フランス語音楽!」と盛りあがってるこの時期に、たまたま中島みゆきのちょっと一貫しすぎてるニューアルバムが発売されただけ……とも。
Last.fmの「テイストの似たアーティス」機能がすごく使える (2009/11/15)
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-1148.html◇
下ネタ。
「夜の色」と「掌」の歌詞の間にある中島みゆきの写真。
マイクをいとおしそうに持ってうっとりとした表情。
「みゆきのこの姿に下半身が興奮しちゃうノンケオヤジファンどももいるんじゃないかな」なんて考えたり。
◇
あと、歌詞に全部ふりがながふってあって、これはいいと思った。歌詞カードでも本でも、ふりがなはバシバシふるべきだと思う。

◇
追記。
数年前から、「夜会の曲はちょっと普段のアルバムじゃ使わないコード進行、メロディー展開をちょいちょいするなあ」と思っていた。
夜会曲じゃないけど、たとえば「心守歌」の、
遙かな愛しいあの人に
悩みのない寝息があればいい
この部分の「あの人に→悩みのない」あたりのコード進行というか……。なんといったらいいのかわからないが、少し斜め下に落ちるような感じの。
その夜会的な独特のコード進行が、今回の「DRAMA!」の前半SEMPO楽曲ではたびたび使われてる。
なんとなく、気になる(あんまりいい気にしかたじゃなく)。
(12:51 09/11/24)
小学生の頃だったろうか、前世、来世という概念があることを知った。「生まれ変わる」という概念そのものはそれより前から知っていたような気もするけど。
僕は母によってクリスチャンに仕立て上げられた訳だが、仕立て上げられたがゆに、そういうことにも興味があった。興味というか、「どういうことだ?」というか。
次のように考えていた。
前世がある。来世がある。その間に今生きてるこの意識がある。
前と後の間の、何で今この生きてるこの範囲にだけ、意識があるんだ?
前世と来世の意識は一体どこにいった?なぜこの今生きてるこの意識にだけこの意識がある??
来世があるなら、来世にも意識がなければならない。でも死んだらその来世の意識を、僕のこの今の意識は確認できない気がする。
「よくわからない。」
それが子供の頃の感覚だった。
◇
それから、子供の頃に考えたか、江原啓之のスピリチュアルが流行り始めて以降にまた意識するようになって考えたか、どちらかはわからないけど、今度は次のように考えるようになった。
前世がある。来世がある。その間に今生きてるこの意識がある。
だが、前世から見れば、この現世は、来世である。
そして、来世からみれば、この現世は前世である。
この世は、前世でもあり、現世でもあり、来世でもある。
「なんじゃそら??」
現世から前世の意識は確認できそうもない。退行催眠とかやっても、それらしい記憶を脳が作り出す気がするな。それが前世でみた風景なのかどうかは本当に怪しい。僕は夢ですごくリアルな映像をよく見るから。
現世から来世の意識も当然確認できそうもない。来世なんだもの。
でも、来世から見れば現世は前世だから、前世の意識は今確認できている。
前世から見れば現世は来世だから、来世の意識は今確認できている。
でも、前世の気もしないし、来世の気もしない。
やっぱり、今の世を確認できる現世でしかない感じがする。
「なんで前・現・後のうち、現だけが意識確認できている?」
■想像上のスピリチュアル派:「つまり、今を生きるということ。それが人に与えられたお役目なんですよ。」
それを補足するため、説明するための前世・現世・来世という概念は、僕はいらない。そんなのますますややこしい。
◇
本日、中島みゆきのニューアルバム「DRAMA!」を買ってきた。その中に「らいしょらいしょ」という歌がある。
来生 来生 前生から今生見れば 来生
(らいしょう らいしょう ぜんしょうから こんじょうみれば らいしょう)
彼方で見りゃ この此岸も彼岸
(かなたでみりゃ このしがんもひがん)
「やられた!」と思った。それは別に「思わずガッツポーズ!」「やってくれるぜみゆきちゃん!」という事じゃなく。
「なんだよ、中島みゆきがこんな歌うたっちゃったら、僕が前世・現世・来世について考えてた事も『ああ、中島みゆきファンだから、中島みゆきの歌詞を真似して言ってるのね?』と思われちゃうじゃん!!」という事。
■想像上の誰か:「はぁ??おまえとみゆきさんを一緒にするなよ!!おまえの考えよりみゆきさんの方が断然凄いにきまってるだろ!!」
(※誰かにあてるように)
布団の中で考えてたんですよ。「僕にとって、先天的、生まれつきと言えるものはなんだ?」と。
僕はある年齢ぐらいからだと思うんですが、結構「○○なのは生まれつきだから」とかいう言葉が嫌いで、どうも「違うんじゃないか」という風に思いがちでした。
少し違う話かもしれませんが、祖母には弟がいました。どちらもすでに死んでますが。その祖母の弟は、結構な音楽家だったんですね。
で、祖母の弟と僕は血は繋がってはいる。祖母の更に両親からの血縁ですね。
ところが、祖母と母がある日、「毅は八郎おじさん(※祖母の弟)の血を受け継いでいるから(だから音楽の才能がある)」と言ったことがある。僕はこれをきいて、アレと思った訳です。「いや、血は受け継いでないよ。血のつながりはあっても」と僕は反論しましたが、祖母と母は「いいえ、受け継いでるの」と言う。父だけが「確かに受け継いではいないな」と言いましたが、多分あれは父としても本来受け継いでない血を我が子に対してそう主張されるのが面白くなかったんでしょうね。
とまあそういう部分で、どこか自分の生、その系統に対して、どこか厳密にしたいところが昔からあったようには思います。
「自分の中で、生まれつきと言える部分はなんだ??」
そう考えて、ひとまず泣くことは生まれつきと言えるな、と思いました。産声が最初の作業ですから。後は目が二つあって、鼻が一つ顔の真ん中にあって、口が一つあって…エトセトラ。まあその辺が生まれつきだと思いました。
同性愛については、一応スタンスとしては後天的な諸々の要因によって整備されたと思っています。そう整備されるより他なかった要因が心当たりが色々あるので。
で、そんなことを考えていたら、ついに「先天的、生まれつきだと確証できることなんてほとんどなくないか?」と思い至ってしまいました。
と、その瞬間、次の思いに至りました。すなわち、「生まれつきなんてほとんどない、と考えるこの感性が、生まれつきなのではないか?」と。
先天的、生まれつきを疑う心性。それが先天的、生まれつきの心性なのではないか、と。
ところがこれまたすぐに次の考えに切り変わってしまいました。
僕がそもそも今こんなことを考えはじめたたのは、ある種の人達が疑うまでもなく自明のこととして認識している、「自分の中で先天的、生まれつきな部分を探して、それをそうなんだと大事にすること」に習ってみたらどうだろうか、という思いつきでした。
ですから、もしも「先天的、生まれつきを疑う心性、それこそが先天的、生まれつき」だとしたら、僕はそれを大事にすることが僕の中で”先天的であること”、”生まれつきであること”を僕が自分自身で尊重すること、大事にすることだと。そのように思い至りました。
つまり、「先天的、生まれつきを疑う心性、それこそが先天的、生まれつきであり、『先天的、生まれつきな部分を自分で認め大事にする』という作業のためには、この先天的、生まれつきを疑う心性をこそ守り続けなければならない」、と。そう言う事になってしまう。
あまりにひねくれていると思われるかもしれませんが、世の「自分の先天的、生まれつきの部分を自分自身で嫌ってしまわないで、自分だけのものとして大事にしよう」というようなフレーズから行けば、僕は今後も「先天的」「生まれつき」という言い方を疑ってかかり、否定しなければならない。
そのように思います。
◇
なお、それでも実はこの「先天的、生まれつきを疑う心性こそが先天的、生まれつき」というのに対してもまだ懐疑的です。納得の着地点とする訳にはいかない感じです。
というのも、キリスト教を信じさせられることが生まれる前からすでに決まっていた訳ですから。
そして、キリスト教では「生まれつきだから」と諦めることもいけなく、「これが僕の運命なんだ」と諦めることもしてはいけない。そのような考え方や禁止を母からは与えられてしまいました。
ですから、もし母からキリスト教を与えられていなかったとしたら、僕も僕ですんなり「これって生まれつきだから」とか「運命だよね」とか平気で吐けていた……のかも、しれません。
結局、生まれた時点で母によって世界が捏造されていたので、本当に何もわかりません。
そうした事を考えれば、僕はいまキリスト教と完全に離れたい、離したいと思ってる訳なので、「スピリチュアリズム発達障害アドバイザー」のようなものでも目指す方がいいのかもしれませんね?(笑)
◇
ちなみに、同性愛は、先天的だといえば「生む前に同性愛かどうか調べて中絶しろ」といわれ、後天的だといえば「ノーマルな異性愛に治すために矯正と教育をするべきだ」といわれてしまいます。
それにLGBT、セクシュアル・マイノリティがよく言う「人として人を性愛的に愛するということ。これはもう人として生まれてきた以上普通で自然なことなんです。その対象が同性なだけで……」というやけにキラキラしたフレーズは、無性愛者の人などを追い詰めるフレーズにもなり得るよな、と思います。
個人的には、性愛は無性愛者の人をベースに考えるべきじゃないのか。そんな風に思っています。ただ、そこから出てくるものは、「異性愛も無性愛も両性愛も全性愛も無性愛もすべて、先天的でもありうるし、後天的でもありうる」という、もうただひたすら普通の事柄だけだとは思いますが……。
男性愛・女性愛・両性愛、有性愛・無性愛 〜性愛の言葉再定義!〜 (2009/09/27)
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-1005.html◇
僕が抵抗しているのは、「生まれつきだから生涯変わることは有り得ない」のような物言いです。この物言いが今、ある種の行動を取ってしまう/取れない人たちに対して、有無を言わさず貼られるレッテルとなりつつあるような風潮を感じていて、不気味なんです。
僕はそうする人たちに対して「
勝手都合解釈型人間分類症候群」と呼んだりしてますけれども。そういう人たちにはこっちから貼り返すしかないですからね。
「差別するな!許さん!」
そういうのは、差別する人を差別することになる。
「いじめるな!許さん!」
そういうのは、いじめる人をいじめることになる。
「言った瞬間、自分もそういう立場になってしまう」
子供の頃からある時期まで、なんとなく思っていたこと。
同性愛者であるがゆえに、心を病むこともあるはずだ。
訴える言葉を持たせてもらえない、失語するしかない社会、世界。気づけば冤罪状態のような八方塞。しかしいつまでも秘密は隠しておけない。心を病んでしまう。
だが、医者に行ってカミングアウトするのもためらわれる。
もしもカミングアウトしたとしても、立ちはだかるのはコレ。
「WHOでは同性愛は治療すべきものじゃないということになっています」
僕が以前やり取りをしていたゲイの人でも、やはりこのように医者から言われたという人がいた。でもその方は主治医となった医者がいい方だったので、そこを汲み取ってもらって治療をすすめていたとか。
自分が同性愛だと気づいたとき、同性愛について調べてみて「WHOでは病気じゃないとしている」という事実を知る。
それゆえ、同性愛者であるがための辛さからくる病いまで「治療すべきものじゃない」という風に繋げてしまう人も、案外いるんじゃないのか。
■想像上の誰か:「そういうゲイの人がいるっていう証明できますか?例えば正式な医学論文の症例の中などに。」
そういうのはわからない。僕はそういう知識についてはお手上げだ。(※ブルースフィンクのラカンの本で、強迫神経症の項目に同性愛者の例が載ってたような……)
でも僕が話しているのは、ヘテロセクシズムを前提としているあらゆる制度における、同性愛を起因とした困難に関する事例の”現れ難さ”だ。
その問いにはすでに、圧倒的に無自覚にヘテロセクシズムを自明のものとしてなんのためらいもなくのほほんとノンキに平気で言ってしまう鈍感さが見え隠れしている。
■想像上の誰か:「じゃあ上に書いた人のことについて、教えてください」
それはアウティング(当人の確認なくその人がゲイだと第三者がカミングアウトしてしまうこと)に繋がるので、一切出来ない。
◇
まあ、WHOの同性愛ナンタラもよくは知っていないけどね・・・。
◇
■想像上の誰か:「どうして小笠原さんは自分がアスペルガー症候群じゃないといい切れるんですか?」
僕が元クリスチャン二世だったこと、そして自分は同性愛者だけど同性愛者だとは言えない現実がある、という2つだけでもう「まるでアスペルガーのような様態になるしかないこと」を想像できないですかね。
『君はキリスト教をやめたのではなかったのか?』
『君の中のとめどない冤罪感覚は、キリスト教に根ざしている。キリスト教二世であったことがそういう感覚を普通の人よりも深く持ってしまっている』
『いいか。キリスト教をやめたのだから、君は今後は嘘をついて生きていかねばならない。普通の人はみなやっている。』
『キリスト教をやめたのに、なぜそんな正義感をいまだ持っているのだ?』
『キリスト教をやめたのに、なぜそんな潔癖を持っている?』
『キリスト教をやめたのに、なぜそんなに言葉を飲み込もうとするのだ?』
『それらがいやで、キリスト教をやめたんじゃなかったのかい。』
『いいかい、君のそのとめどない裁判精神は、キリスト教からの呪いだ。その裁判精神を意識してやめなければ、君はキリスト教からは解き放たれない。』
『現在の自分に続く感性のうち、与えられてしまったキリスト教に根ざしてしまっているものは一体何なのか。それをよく自分の中で点検しなさい。』
『その中には、君が今後も大切にしていきたい感性があるのかもしれない。だがそれこそがキリスト教からの呪いの感性なのだ!!』
『心底キリスト教をやめたいのなら、それを手放しなさい。』
『君が普通の人じゃないのは、キリスト教二世だったからだ。それに根ざした感性を持たされてしまったからだ。』
『普通になりたくば、それらを意識して捨てることを積まなければならない。』
世間からの腐女子への風当たりについて、ぼんやりと書いてみる。
なお、ここでの腐女子は、BL・やおい派とする。
まず、腐女子への風当たりには、いくつかの風が複合的になっていて、そこをまず解きほぐすしかないと考える。
いくつかの風とは、すなわち
1 女性がポルノを堪能すること(※あるいはしてるようにしか見えない/見てもらえないこと。以下この意味合いを含む)への風当たり
2 BL・やおいのネタ・テーマである同性愛要素への風当たり
3 ゲイからの苦情
の3つが大きな柱かな、と思う。
腐女子叩きをする人の主題がこれらのうちどれが中心になっているのかをまず見極めのポイントに据えるべきかな、と。
ただし、3番目のゲイからの苦情については、これまで幾度となく繰り返されてきたであろう、ヘテロ男性が行うポルノ堪能への女性からの苦情、つまり「自分達をエロの道具にしてそういうまなざしで見つめるな」「性的女性蔑視、凌辱的欲望のまなざしへの抵抗・反発」ということと、それから「男子同士で共有するエロファンタジー」に女性が介入してくることへの抵抗と反発と正当化(「男の浮気は甲斐性だ!」)、その反復にすぎないんだと思う。つまり、「性的に消費するのは暴力だ!(それが私達にも見える形で存在している!)」ということ。なので(というつなげ方はおかしいが)3番目についてはちょっと外す。
よって、腐女子に吹き当たる大きな風は、主に1と2。
でも、2については単純に「同性愛への偏見やめてくださーい」で終了。一般的なLGBT言説でいくらでも済むでしょう。腐女子でもナマモノ(というんだっけ)同性愛については無理、という人もいるようだし、そういう腐女子にたいしても「理解してね(はぁと)」で終了だ。
やはり問題は、1の、女性がポルノを堪能すること、それへの風当たり、社会や文化側の許せなさ、これが強風なのだと思う。
◇
■想像上の誰か:「女のくせにポルノだなんて……淫乱女じゃないか!」
■想像上の誰か:「(きらきらした目で)女性は身体を守らなくてはなりません。子を宿すことを最終目的として作られた身体なのですから……!それがこの世において女に与えられたお役目ではないでしょうか?」
■想像上の誰か:「女は黙って男のセンズリのネタとして大人しく可愛くしてりゃあいいんだよ!」
■想像上の誰か:「え、エロ好きなの?マジ?じゃあちょっと一発お願いしていいかな?……なんだよ、させてくれねーのかよ!」
想像できる言葉の数々は、どうもこんなのばかりになってしまう……ウーン……。
僕個人の「偽善的寄り添い心情」かもしれないことを認めると、「女性のポルノ堪能の正当性と解放を訴えるのは、革新的な事なんじゃないの」なんて思うのだけど、そういう思い方それそのものが、すでにどこかヘテロ毒(??)にまみれた思い方・言い方なのかもしれない。
◇
以上、書いたことは多分ものすごく問題のはじまり、端っこのことに過ぎないんだろう。何も書けていないに等しいに違いない。考えるなら、ジェンダー&セクシュアリティの話に突っ込まなければいけないのだろうけど、そうすると多分「腐女子」というのはあくまでそうした問題のうちの一つとしてあらわられているだけに過ぎない、みたいな風に語られるだけになってしまって……ナドナド。
現実にあるのは、「腐女子に風当たり強くするのやめてください!><」という要求だけだ。
◇
まあ、あとは「生理的嫌悪感の尊重」の問題なんだろう。
僕の同性愛を援用して腐女子に当たる強風を翻訳すると、「腐女子、BLなんてきくと生々しい想像を喚起してしまうから、おまえら存在するな」という事。
その生々しい想像とは、やはり
■想像上の誰か:「同性愛を想像してしまうだろ!」
というものでもあるし、もう一つは
■想像上の誰か:「デブでブスなアラサー、アラフォーの喪女が同性愛を想像してマンズリしてるなんて想像しただけでも吐き気がする!(それに引き換えこのアイドルはかわいいなあ、このAVは抜けるなあ、女はこうあるべきだよなあ)」
というものだろうか。それすなわち、「オタクはキモイ」と同じだし、「ゲイはイケメンでキレイなのだけ許す」と同じだ。
む……ユニークフェイスの話に繋がってしまいそうだ。
許される身体、許されない身体。身体と内面の合致を要求する観客席。
だが身体と内面の合致を要求されて、その要求をのむことの方が全然違和感がない人の方が圧倒的に多いのが、マイノリティ(と可視化される表面上、分類される者達)にとってはとめどない現実だ。
「マジョリティにだって身体と内面の合致に実は窮屈さを覚えている人はいるはずだ」という訴えが、どこまで届くか……。それはシンプルに「自分らしく生きよう」というメッセージに転化されやすいが、そうなった途端、マジョリティ思想へと成り果ててしまい、結局また同じマジョリティ/マイノリティ構造を再生産するだけ。
◇
ところで、僕には腐女子の知り合いはほとんどいない。ネットで繋がってきた中で、ちらほらいたのかな、とは思うけれど、「こんなのが腐女子」とイメージしやすいタイプの腐女子は、いない。
しかし、1度目の高校の時、クラスに非常に濃い腐女子らしき存在の子は、いた。
「面白いんだよ、凄いんだよ」とわざわざオススメしてくれて、授業中でも机で隠してコピー閉じの同人誌を読んでいるような子で、内容が物凄かった。僕も読まされた。
その子が夢中で読んでいたのは、セーラームーンの百合もの同人誌で、どういう訳かセーラームーン達は「どぷっ」「ぶぴゅっ」などと盛大に音を立てて精液らしいものがセーラームーン達の性器周辺から発射されて、セーラームーン達が互いに白濁まみれになる内容であった。正直、ぶっ飛んでて面白かった。
純粋な腐女子体験と言えるのかどうかはわからないが、最初に出会った腐女子がそんな感じの人であったため、フツー(?)の腐女子達が「腐女子趣味がバレたらどうしよう……おホモさん、ごめんなさいww」などと言う程度では、なんとなく「フーン」という感じだ。
というか、むしろ僕をネタにしてBLマンガとか作るのだとしたら、一体どういう出来ばえになるのか、とかそんな興味の方が沸いてしまったり……。
松田武己氏から本日午前10時頃に届いたメール全文
不登校情報センターの松田です。
先日の、同性愛に関する文章ありがとうございました。
直接の反応といえるかどうかはわかりませんが、文章を載せました『ひきコミ』を数
人が買いましたし、こちらのスペースでも少し話題になりました。
スペースで、ある人が「ぼくはノーマルだから」といったところ、「同性愛がノーマ
ルではないとは言えないんじゃないか」ということばが返ってきて、そういうやりと
りのなかに何かが少しずつ進んでいく気がしました。
「LGBT入門ガイド」という小さなパンフレットも送られてきました。いまの私に
は、このパンフレットをゆっくりみていく余裕はありませんが、ここに置いておけば
読んでいく人も出るかもしれません。
いまあの文章は情報センターの五十田猛「質問と回答」ページに載せました。
これまで、同性愛を自分のなかで抱えたままになっている人、誰かに告げたけれども
肯定的には受けとめられなかった人、そういう人は引きこもりの経験者のなかに少な
からずいると思いますので、何らかの参考にしていただけるものと思います。
感謝しています。 2009年11月23日
そういう経緯で、不登校情報センターの松田武己氏に送付した僕のメールが掲載された。
http://www.futoko.co.jp/shitsumon_to_kaito/tegami_11.htmlちなみに、多少の改変はなされている。長文メールを送った後にちまちま送った補足メールなどを一つのメールとされているし、はじめのメールで最後に書いた「「ひきこもりからのSOS」などとも解釈されても、不本意です。」という一文はなぜか削られている。
しかし、
僕はこのページに載せられていない長文メールを松田武己氏にまだもう一つ送付している。僕が氏に送付したここに載せられていないメールは以下が全文。
不登校情報センター・松田武己氏へのメール (2009/11/02)
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-1104.htmlこれについては先のページでは何も言及されていないどころか、「
以上がOTさんからメールでいただいたものです。あるいはこれからもOTさんと何らかの連絡は続くかもしれません。それはまた別のことといたします。」とまで書かれている。
「以上が」???
(※ついでに、松田氏が僕に送ったメールもう一通も掲載されていない。こちらのメールでは氏は同性愛を「ハンディ」と書いている。→
不登校情報センター・松田武己氏からのメール2)
僕はこのメールの中で、氏が僕のメールをhikicomiに載せたことに対して驚きをあらわし、次回も、もしそうするのであれば何かしら連絡が欲しい、ということを書いた。ゆえに、次回何かに載せる際には必ず連絡をくれるだろうとも思っていた。
だが氏は連絡はしてこず、本日突然「載せました、感謝します」とのメール。
氏がある種の意図を持ってこういう形式にしたのか、それとも素朴にこういう形式をとったのか(天然ボケなのか)、どちらだろうか。
意図があるとするなら、「hikicomiに載せるなら、とだけは言ってたけど、HPに載せるのはダメとは書いてなかったよねぇ?」というものなのかな、と思うが。
氏、本人が自認している「アスペルガー症候群」ということを”考慮してあげる”のなら、ハッキリと「hikicomiに載せるなら連絡をくださいということだけでは理解できませんでしたでしょうか。」と返事を書くべきなのだろうか。
ただ、あくまで「不登校・ひきこもりに同性愛を想定してちょうだい」という一定の目的を遂げたことには間違いはない。氏は話の最初からまさに「そういったことには見識がない」と言っていたのだし、そういった意味ではアウティングという概念がまったくもってない(もちようがない)大雑把なやり方ながら、一応組み込んでくれてはいる。氏がメールにて書いている、不登校情報センターでのやり取りでも、「ノーマルという表現について」などなど滅茶苦茶基本的なことを問題にしており「始まったな」という感じもする。(その割には「LGBT入門ガイド」なるパンフレットを読むこともしないと平気で述べた上で「誰かが読むかも」と若干放置気味だが。僕が送付したすこたんのページはチラ見ぐらいはしたのだろうか。先のページの最終回答?を読んだだけでも、微塵も見ていないのではないかと邪推してしまいたくなる)。
それに、確かに僕は初回のメールで「また、ぼくの送付したこのメールが、何かしら資料として使えるのであれば、そのように使われることは、特別かまいません。」とも書いており、その使われ方のイメージを勝手に自分の中で「メールとして印刷され、内部でコピーされて回し読みされる程度」などと膨らましていたので、資料として組み込まれる想定としては、甘かったとも言える。
ネットの性質を考えてみても、こういう風に対応されるものだと考えるのが妥当なところだろうか。(THE 去勢!)
僕としては、「掲載するなら掲載するでこちらも用意する文章が違うのだけど」というのが本音だ。個人のHPやブログに載るならともかく、一応NPO法人のサイトな訳で……。
◇
その訴えの性質上、色々とぼかすが、僕のブログコメントにて「不登校情報センターにはもう二度とかかわりたくない」とおっしゃられた方がいた。なんとなく、わかる気がしてしまうのは、個人的な心情を優先させすぎだろうか。
「こうしたNPO法人というのは、理事長などの思想固めのために、色んな素材が分析対象として回収されるだけのパターンになるのかもしれない」というのを一応頭の隅っこに置いておく。
「資料として使われるのはかまわないが、何かしら発表媒体に載せようとするなら必ず連絡をくれ」というべきことも。
◇
ところで、僕が不登校情報センターにメールするきっかけになった、hikicomiコピーとナントカ学園のパンフレットが送付されてくることについては、松田氏は何も触れてこなかったのが気になる。そもそもは、不登校情報センターがそうしたものを一方的にいつまでもいつまでも送りつけてきていることなのだが。
先のページでは「『ひきコミ』特別号をこれまでに不登校情報センターに何らかの形で関わった人に不定期に送っています。」とあるが、僕は不登校情報センターに関わったことは今回のメール以外、一度もない。
(17:45 09/11/22)
僕は数年前から父に頼まれてMIDIを作っていた。
作るMIDIは、聖歌、讃美歌である。
MIDIと言ってもチンケなMIDIで、聖歌や讃美歌の主旋律をピアノ単音でnコーラス分作成し、そこにメトロノームとしてスティック音を最初から最後までにくわえたものだ。
父にMIDIを頼まれ、MIDIを作ること。そうして、父のキリスト教に役立たなければならないことへの、とめどない嫌悪感。
しかし断れない。断れば色々迎合的に言われて丸め込まれてしまう。へたすれば「人は生きてる以上、人のお願いをきかなければならないものだ」のように威張られてしまう。
だが本当にイヤで、作るのを伸ばし伸ばしにしてしまいがち。父、「MIDIまだぁ?待ってるんですけど。お願いします。急いで。」
昨年、僕が母に「キリスト教は金輪際うんざりだ」と伝え、たびたびキリスト教を否定してきたことは、すでに母から父に伝えられているはずだ。部屋中に飾った、バカみたいなキリスト教関係の飾り(信者仲間が書いたらしき「神は愛なり」なんて習字など)を絶叫しながら破り捨てたりした。
だから、キリスト教はいやでいやで仕方ない、というのは伝わっているはずだった。
しかし父は平気で僕にMIDIを頼む。「早くね。急いで。待ってるから。」
いやでいやで仕方なく、父のむかつく迎合的で、しかしなおかつ上から言うようなニュアンス。伸ばし伸ばしで、ようやくMIDIを作って渡す。
MIDIを作って渡すと、父は僕に金をよこす。500円か1000円ほどだ。
僕はこれがまたたまらなくいやで、MIDIを渡したらすぐに部屋に引っ込んだりして金を受け取らないような状態にもっていく。
だが父は覚えていて、僕に必ず金を渡す。受け取る。すごい屈辱。そして「またお願いね」と父は言う。また次回もあるのか。いやだ。もう作りたくない。こんな金もほしくない。
そんなことをもう数年以上続けてきた。
たかだかチンケなすぐに作れるMIDIなのに、いやでいやでたまらず、重労働以外の何物でもなかった。
が、昨日母とのやり取りでのイライラついでに、父がキリスト教をやってるところ(※次の礼拝の準備など)に扉をガラッとあけて父の目の前に、聖歌の本と讃美歌の本とFDと(※受け渡しはFDで行っていた)聖歌&讃美歌の番号&タイトルを書かれたメモ紙、それをくしゃくしゃに丸めて踏みつけたものを、「やりたくない」と一言言い放ってドサッと放りだし、すぐさま扉を閉めた。父がちょっと驚いたような仕草は見えたが、その後どんな表情をしたかなどは見ていない。
こうして、MIDI作りを断った訳だが、次回また父が性懲りもなくMIDIを頼んできたらどうしようかと悩んでいる。
なお、そうしてやや乱暴に父に依頼を突っ返したことで、スッとしたものはあった。どれだけ自分にとって重荷になっていたのか、わかった気がする。
◇
父はキリスト教に役立てるためにMIDIを必要としている。
僕はキリスト教など死んでしまえと思っている。
僕はMIDIを作れる。(カス程度のもの)
父が僕にMIDIを依頼する。キリスト教に役立てるために。
僕は父がキリスト教に役立てるために使うことを知っている。
僕はキリスト教など死んでしまえと思っている。
だが作り、父に渡す。
父は僕に金を渡す。
僕のMIDIを作れる作業力が、父によって買われていった。
だがその買われ方は、僕が嫌悪するキリスト教の作業を整備するために使われる買われ方だ。
憎んでいる父からの依頼によって、僕は自らの作業力でMIDIを作ってしまい、壊滅してしまえと思うほど嫌悪するキリスト教に加担している。そうして500円〜1000円を渡されてしまう。
うまく言えないが、これらのプロセスは、『糧を得るために、自分にとってもっとも不都合な世界作りに加担してしまうこと』とでも表現できそうなことで、そんな構造の中のとても小さな種類のものなんじゃないか、と考えたりする。
そして、それが《仕事の本質》などと謳われるものであるような気も。「給料は我慢料」などと美輪明宏は言っているが。
しかし、それのネタがキリスト教であるという事実。これがまた凄い矛盾をはらんでいるような気がするのだが……。
僕側の言い方をすれば、「連中の救済されたい・癒されたい心性のためだけに、僕というモノゴトが搾取されている」とでも言おうか……。それは連中がやっているキリスト教にとって、もっともキリスト教的じゃないのでは……。だが彼らは感謝すれば&祈ればいいと思っているから手におえない。
『宗教を信じるとは、最大の盾としての神に依拠することにより、自らの価値観からくる図々しさを、善意や感謝によって批判されない位置にまでのし上げることで、他者を平気で裁こうとする、そうすることが出来てしまう、行為である。』、かな……。
◇
まあそんな大げさに言うようなことでもないけど。父から数年間頼まれ続けてきたイヤすぎる聖歌&賛美歌MIDI作りを断った、ただそれだけ。
僕が自助会などをもし作るとすれば、主体に置くべきはなにかと考えたが、やはり
「元宗教信者二世による、(主に親からの)被害報告の会」
になるのかな、と考えた。
同性愛、ひきこもり、アダルトチルドレン、そうした僕の諸々のものを一応すべてここに含められる。
で、こんな動画を作ってアップしてみたものの、さてはてここから果たしてどうするべきか。僕がこのブログに書いてきたような内容を「経験談」として話すような内容の動画をアップするべきか。一人自助会。
ちなみに自分で動画を確認するために見ていて、咳払いと鼻をすするのを気をつけないと、などと思ったりはする。あるいは後でカット。出来るかな……。
■想像上の誰か:「普段顔写真出してるのに、なんで顔出さないの?」
自分のブログで画像出すのと、Youtubeに動画投稿するのでは、ちょっと意識が違うのは確か。そのうち顔出すのかもね……。
■想像上の誰か:「本当に自助会作るんですか?」
わからない。「やっぱり作れない自信」しかない。でもまあ、「気持ちとしてはある」ということを、自分でこのブログにメモづけるような意味合いを含めて、こんな形をとってみた。
※動画の補足。
「複合されたマイノリティ性を理解してくれるグループがない」というのは、「ちょっとそこまでは受け付けられないというグループが多い」というような意味。
ある方からメールが届く。内容は、僕の何かしら記事に対する反論だったり別の意見だったりする。
「うわ、よりにもよってあの記事か……」とか「何を書いたっけ?」とか思ったりする。
しかし一応それなりに返信してみる。
が、どうもやりきれない応酬に、若干疲弊気味で始終してしまう。
どうやら、僕はブログで顔まで出して同性愛者、あるいはひきこもりであることをプロフィールに書いているがゆえに、すでに同性愛/ひきこもりの問題については「問題からはずしている人」と思われやすさもあるらしい。
ゆえに、僕に向かって相手が論じようとするポイントは常に直接的に相手が問いたい部分だけになってくる。
だが、僕が書くことには、同性愛などもろもろの問題としての前提があった上で書くことばかりなので、そこをはずされて「私が問いたいところだけを私の希望通りに答えてください」と言われても「おいちょっと待ってくれよ」と言いたくなってしまう。
しかし、相手がすでに問題としてはずしているのは、ある意味「はずしてくれている」とも言える。「特別意識もせず」というような形で、僕に問いをかけてきている。
とは言え、それでこちらが「ありがたさ」に腰を低くすると、「ひきこもり」というマークを取られて「ようやくわかってくれたんですね。ひきこもりの頑なな心が溶解しましたね?」と一気に上から目線で語られてしまう。ここで「おいちょっと待ってくれよ」と言える立場のなさ。
逆に言うと、相手にはどこかで「ひきこもりのくせに」という見方の前提がある。それが疲弊した応酬の最後であらわれる場合があり(EX:「ひきこもりのくせに意見できる立場にあるとでも?」)、そういうときは僕の方では「なんだ、やっぱ言いたいことはそこなんだ。本音はそれなんだ。」と案外ほっとしたりする。
そうしたことでの采配をどうしたらいいのか……考えるところ。
まあそう込み入った話でのメールがくるような事もあまりないのだが。
自助会、自助サークル、自助グループ。
何と言ったらいいのかわからない、イメージも漠然としているのだが、そういうのを作るにはどうしたらいいのだろうか?
僕にはそういうものに参加したいという気持ちはあるのだが、とにかくネットで検索してもややこしい場所にしかない。ややこしいというのは、「遠い」など。
なんとか地元に探し、作りたいとは思うのだが……。
「こういう方法が取れるかな」と思っても、どこに行っても必ずカミングアウトがつきまとってしまう。
考えたのは、女性問題のグループに参加できたら参加してみて、そういうことにわかる人がいればいいという事だけど……怖いなあ。
◇
何をどうしたいのか、というのはよくわかっていない。「僕がやるべきなんだろうか」という思いが曖昧にある。
ひきこもり、ニート、セクシュアリティ、各種マイノリティ……。
そういう集まりを作ったとしても、アスペルガーの人がもし来てしまったら、脱力してしまう気がする。
移動手段は徒歩と電車。これだけ。バスはすごく苦手だ。この移動手段で動ける範囲でのそういうものじゃなければいけない。
想像がしにくい……。ピカッといつかイメージが繋がってどうにかなるだろうか……。
ひとまず「漠然としたイメージでも持ち続けておくのだけはしておこう」とは思っているが、それで3年5年10年経過してしまうんじゃないのか……。
市役所に行くべきなのか……。カミングアウト……。最初にぶち当たる人がよくなかったら凄い勢いで引っ込んでしまうかもしれない。
わからない……。
◇
基本、ひきこもり関係の支援者・団体であれば、マイノリティはおおむね受け入れてくれると考えていいらしい。
まずはどこか遠くでも出かけて参加するべきだろうか……。
細かいことは省くが、昼間、母とのやり取り、父とのやり取りでイライラが絶頂に達した。
どうしていいかわからなかったが、その後母と父は外へ出かけていった。
自室から、下に降りる。
父の椅子を見る。蹴飛ばしてみた。蹴飛ばしてみる。何度も蹴飛ばしてみる。自然と「アアア!!」と声が出る。
母のいつもいる場所も蹴飛ばしてみる。やはり自然と声が出る。
しかし自前の足ではちょっと衝撃がありすぎて、何度も出来ない。
そこで何か手ごろの棒のようなものがないかと見回して……どうやら来年度のカレンダーらしきものがビニールに入ってまるまっている。
それを手に取り、父の椅子を再び叩きはじめる。自然と言葉が出る。すさまじい声の大きさ、声の出し方だった。
「ふざけるな!クソヤロウ!クソヤロウ!バカ!おまえのせいだろ!おまえが全部悪いんだ!チクショウ!!死ね!!死ね!!」
母のいる場所もそうしてみる。やはり声が出る。夢中になる。
が、中止することも可能であった。結構疲れる。汗が全身に吹き出る。「あんな声が出るもんなんだな……」などとも思う。
再びたたき始める。また怒鳴り声が自然と出てくる。不思議だ、こんな声が出るなんて……。
同時に、「殺人する最中って、こういう感じなのかな……」とも思う。
何度もたたいてるあいだに、カレンダーはビニールがはずれ、棒の形を取れなくなってしまった。もうここまでかな、と思ったけど……。
父の椅子はキャスターがついているので、カレンダーとはいえ叩いていると動いてしまう。そこで椅子を横にして、開いたカレンダーでまたたたき始める。カレンダーがどんどん破けていく。声が出る。
カレンダーが使い物にならなくなって、これで終わりかな……と思うが何か気が済まず、父のテーブルの上に置いてある聖歌と賛美歌の本を叩き落とすようにして床にぶちまける。何か他にもゴチャゴチャしたものが落ちていった。
片付けようかと思ったけど、そのまま自室に戻った。
母と父が帰ってきた。
母「ちょっと、すごいことになってるんだけど」
父「すごい?なにが?」
母「見てみて」
あとは会話は聞こえなかった。
◇
親がいない間に、親がいつも座ってる場所とか、そう壊れない武器で叩きまくってみるの、オススメです。かなりスッとする。
ひきこもりが家庭内暴力をした後は罪悪感にまみれるというのは、嘘なんじゃないんでしょうか?(これをもってして「アスペルガーの本質が出現した」みたいに単純に考えちゃう人もいるんだろうなぁ……くわばらくわばら)
僕は以前も親に対して暴れたときも後で結構胸の中がスッとしたので、もしかすると僕の本質って暴力性なんじゃないかな、とか思ったりもした。もちろん、条件さえ揃えば変な殺人犯とかにもなってしまうかもしれないと思うと、気をつけなきゃとも思うが……。
ひきこもり諸君、親の居場所をバシバシはたきましょう。
◇
なお、カレンダーをふりまわしすぎたせいか、両手ともに親指からその辺りが筋肉痛気味。暴れたときは大抵どこかがすごく軽く負傷する。
このブログは、昨日までは非公開コメント、すなわち管理者である僕にしか見えないようにできるコメントを投稿できるように設定していた。
が、それはもう受け付けないことにする。
一つには、これまでずっとそうだったのだが、あまりにも重大すぎることや、ほとんど秘密の告白に近いこと、カミングアウトなどが、集まってしまうため。
それこそ公開コメントで書いてほしいと思う内容、ブログを開設して訴えてもらったりする方が絶対いいと思う内容が、非公開コメントで僕にだけ向けて書かれてしまうため。
そういう経緯でそうした素材を僕が吸い込みながらも、僕としてもアウティング(※)する事もかなわないため。僕はもらったばかりのモノゴトをぼかして素材化できるほど器用でもない。
(※アウティングは通例では同性愛者本人によるカミングアウトという意味と、カミングアウトしない選択を取っている人のことを第三者がカミングアウトしてしまったりすることだが、ここでは単純に「秘密を」という程度の意味)
そうしたコメントが書かれることで、時にある種のジレンマやもどかしさを覚えていた。
◇
そういう訳で、非公開コメントは受け付けない設定にすることにした。
(※誰かにあてるように)
僕は、小6までは、女の子、”も”、好きだったんです。
覚えてる限りでの初恋は隣の家のお兄ちゃんでしたから、最初のはじまりはやはり対象が男性だった訳ですが、小学生の時は気が色々移りながらも、一年から六年までずっとおなじ女の子が好きだったんです。ずっとおなじクラスでしたし。
で、中学にあがって、その女の子とはクラスがわかれて、気持ちがスッと引っ込んだんです。当時はそのことを、「ああ、ずっとおなじクラスだったから好きだっただけなのかな……」と考えていましたが……。今の僕の言葉でいうと、つまり「想い続けるという感性が可能な状態環境」がずっと用意されつづけていただけ、のような。
中1からはしばらく好きな子とかはいなかったんですけど、部活に入ってある程度たってから、一年上の先輩を明確に好きになりました。それ以降はずっと男性しか好きになれてないです。
LGBTのある種の言説では、「セクシュアリティは生まれつき」等々言われるのですが、こうした経験などなどがあって、どうも生まれつきとは言えないというのが僕の実感です。あくまで僕個人の実感ですが。
僕自身としては、いまこの同性愛と呼ばれてしまう性愛を抱えてるのは、最終的にそう整備されてしまった、という感覚が強いんです。何がどう整備だっていうかについては親兄弟やキリスト教との関連も考慮にいれてるのですが、そこをはさみながら説明するとあまりにややこしいので、ちょっと単純なシステムの話だけにします。何がどう整備されたか。
中1から男子の先輩を好きになってしまったことで、まさに当然のことなんですが、「どうにもならなさ」を抱え込んでしまった。追ったところで何にもならなさを抱え込んでしまった。これが最大の、僕の場合だけにおける《同性愛整備》の要素です。
僕の小学生の時の片想いについては、正直もうその心中はよく覚えてないので、一般的なヘテロの心性を当てはめて、こうだったかな、と語るしかないのですが、小学生時の片想いは、片想いの切なさとか「ああしたいな、こうしたいな」という妄想とかいう気持ちの中に、それでも「どうにかなれそうな可能性」というのが含まれていたんだと思います。
もちろん告白なんかしないし、そういう素振りも見せないので、事実上は「どうにもならない片想い」に過ぎないんですけど、僕の中での言語化も意識化もされない程度の夢想と可能性、つまりややヒステリックなLGBTがよく言う「ヘテロは無自覚で無意識で片想いや恋愛の優遇さと特権に浸れている」というようなものを抱えながら、片想いが「出来ていた」「有することが許されていた」な、と。そんな風に思うんです。だから、無邪気に片想いの切なさや自分には告白できないしょうもなさとかに浸ることができた。
ところが、中1からは男子の先輩を好きになることで、それまでのヘテロ性愛では浸ることができていたはずのことが、「どうしようもなさ」を伴って、「できない」という事実が強烈に前傾化してきてしまった。
いや、実際当時どう思っていたのか、これもまた案外覚えていません。おなじ部活でほぼ毎日会えるのですが、中学からは僕も不登校が多くなったので、そうしたことも入り混じっていますので。ただ今ここではちょっと話を単純化しています。
小6までの女子への片想いは、自分の中にとどめざるを得ないという状態ではあるにしても、「追ってもいい」という前提があって、夢想や悶絶ができていた。
中1からの男子の先輩への片想いは、自分の中にとどめざるを得ないという状態であり、さらに「追ってはいけない」という前提が確実にあって、夢想することも悶絶することも、ある種の「どうにもならなさ」に接続する行為にしかならなかった。
ここから発生するのは、「なぜ?どうして?」という想いを伴いながらの、執拗なまでの「追いたい」という願望の浮上なんじゃないか、と思うんです。
わかりやすい言い方なら、「見ちゃだめと言われたら見たくなる」というようなものですね。
「同性を性愛的に追っちゃだめといわれたから、気づけば追ってしまっている」
禁止・制限とそのことで発生する追跡の、終わらない悪循環。
これ、僕が言う「同性愛に整備された」という事なんです。
◇
……と、ここまで書いて思い出したのですが、そういえば僕は中1の時、同じクラスの男子・Iという奴に、同じクラスの女子・Oという子と僕とを恋仲のように仕立て上げられそうになった事がありました。
その時の僕の心境はどうだったのかよく覚えていないのですが、でもいまこうして書いていて思い出すような、頭をポカポカ殴りたくなるような赤面の思い出は、いくつかありますね。いやな汗が出るなあ……。こんなやり取りをした事があります。
「なあ……おまえ……好きな人とか、いるの……?」
「……いないよ……」
「ふーん……そうか……」
「(大無言)」
「じゃあ……」
「うん、バイバイ……」
そんなやり取り、しました。もうすごい恥ずかしいんですけど、この恥ずかしさは多分「12歳でオレ何言ってやがる!!アホアホアホアホ!!何気取りだよクソッタレ!!!死ね!死ね!あのときのオレ、死ね!!」というようなことだと思います。(なんか想像上である種の男性から「そういう学生服での青春シーンがあるのがうらやましい」とかいう声がきこえそうなのですが、僕としてはただひたすら恥ずかしいだけ&同性愛者としてはややもどかしさのある思い出です。青いヘテロ性愛的なこそばゆさとかがある訳でもなく。誰かこの思い出もらってってくれませんか。)
その時、もしも僕が恋仲のように仕立て上げられそうになったその女子Oに、流れにまかせて告白でもしていたら、もしかすると僕はゲイではなかった可能性も、あったかもしれないです。あるいは、少なくとも子供の頃から変わらずバイセクシャルだったか……。
◇
そんなこんなで、「僕は生まれつき同性愛者!」とは言えない心性が僕にはあります。
あくまで「性愛を有している」=有性愛であり、「性愛の対象が男性」という、言わば「男性愛者」とでも呼べそうなものだな、とは言えます。それも、「現時点の段階を最終整備として」。
◇
■想像上の誰か:「といっても、それは、人を好きになるシステムそれそのものなのでは?」
それはそうなんですが、僕の場合、敗北感に根ざした、依存症的な追い方になっているのではないか、という気がするんです。(実はある種のオタクの人達の二次元追及も同じ線上なのではないかと考えています)
頭の中で「ノンケに愛されたい」という圧倒的矛盾を抱えた願望があります。若いゲイの子がよく表現するような、「ノンケのように日常の中で恋愛対象に出会いたい」ということの言い換えなのかもしれませんが。
※以下の文章は、Mという方にメールで送ろうとしたが、やはりやめた文章。
◇
ところで、石井政之さん……というよりも、ユニークフェイスという”モノ”、”コト”全般にも、興味……問題意識……思うところ……なんといいましょうか、なんともいえない言葉にならないもやもやしたものを覚えています。
とりあえず一つだけ言うなら、そうした状態ゆえに外に出られない、自由に動けない、という部分において、一番最初にひきこもり的状態に追い込まれる人達なのではないかとか、そんな感じです。昔であれば、顔が何か”フツー”と違えば、生まれてすぐ殺されていたのかもしれない、とかそういう想像とかですね……。
ユニークフェイスには僕はまっすぐには向かえない気持ちがあります(まあひきこもりなので、何にも向かえてないのですが汗)。ユニークフェイスには何かこちらにむかって深くえぐってくるような”モノ”、”コト”を感じてしまって……。
しかしながら同時に、そう「えぐってくるものがある」と感じているのは、あくまで僕個人がそういうものをユニークフェイスに投影しているからだとも思え、そう感じてしまうのもあまりに必要以上に失礼なことなんじゃないか、とか思ってしまったり。またその段階で僕がゴチャゴチャ思うのも、傲慢なのではないか、とか思ったり……。
ただ、いまのところの結論(?)は、「顔に何かがある人に知り合ってみなければ話は始まらない」というところでしょうか。そういう結論にひとまずとどまることをしないと、という意味合いでも。

過去、好きだったがゆえに迷惑をかけてしまって、もうあわせる顔がまったくないとおもえるヘテロの人が何人かいる。
その人たちに対する罪悪感。「あのときを、こうやり直せたら」というタラレバ感。ぬぐえなかった。いまでもぬぐえない。
が、最近、少しちょっと考え方というか、そんなのが変わってきた。
迷惑をかけてしまったりしたその人たち。その人たちのことが、好きだった。その人たちと、”両想い”になりたく、その人たちに性愛的に愛されたかった。
性愛的に愛されたい……。それを、想像の中でなら、妄想の中でなら、実現してしまっても、いいんじゃないか?
自分の部屋なんだから。自分の布団の中なんだから。どんな想像したって、妄想したっていいんじゃないか?
その人たちには、すごい迷惑かけた。完全に僕が悪かった。場合によっては傷つけてしまった。何を言われても反論のしようがない。
……でも、アタマの中で、都合よく動かしちゃっても、別にいいんじゃないか!?アタマの中でならあんなことこんなこと、ゲヘゲヘ想像して頭の中だけではすんごいことになっちゃっても、怒られないぞ!?脳内ハーレムやっちゃっていいんじゃないの!?
……という、もうほんと末期な発想の元、最近布団の中で、とめどなくえげつない妄想をかき立てている。
はっきり言って空しいといえば空しい。
が、どこか”身体が満たされる”感じは、それなりにある。その身体が満たされる感じが勝っちゃって、「空しさも、まあいいか」という気持ち。
ただ、脳内ハーレムをヘタにこじらせてしまうと精神疾患になってしまうと思うので、ほどほどに。そのほどほどさを保つために、こんな風にして書いてしまっている、という訳だが。
みなさんはいかがですか。脳内彼女、脳内彼氏、脳内ハーレム、脳内エロゲ。やってますか。
◇
誰もききたくもない余談だろうが、過去付き合った元彼ではなぜか脳内ハーレムが出来ない。敗れた片想いの相手でしか出来ない。元彼とは性愛的に満たされたからだろうか。ないものねだりなのね。
(※以下の文章は、
オールニートニッポンの【放送テーマ募集】への投稿。)
(※実際には、僕は本日よりアスペルガーについては若干どうでもよくなってきているのだが、【放送テーマ募集】とあったのを見て、つい投稿してしまった)
◇
どうも、こんにちは。小笠原毅(おがさわらたけし)と申します。オールニートニッポンはいつも……じゃなく、ほんとにごくまれに時々聞いています。いつもじゃなくて、すいません。
さて、放送テーマ募集とあったので、ためしに投稿してみます。
最近、発達障害やアスペルガー症候群の一般向けの解説を結構見聞きするようになった気がします。
ちょっと前まで自分はそうした解説や啓蒙を見聞きするたび、少し怯えていたところです。
というのも、自分は現在ひきこもりで、かつ実生活ではカミングアウトしていない同性愛者だからです。(そうしたセクシュアルマイノリティの人のほうが多いとは思いますが)
アスペルガー症候群の特徴項目を最初に読んだとき、あまりに自分に当てはまりすぎるので驚き、一時はアスペルガー症候群なのだと思い込みました。
が、しばらくしてすぐまた次のように思いなおしました。
「いや、性別の揺らぎの問題があることや同性愛者であることを家族にも友達にも誰にも言えない状況が幼少期からつづいているのであれば、ある種の同性愛者の場合、取らざるを得ない言動、あるいは取り得ない言動は、どうあがいてもアスペルガー症候群や各種人格障害的になってしまうのは当たり前じゃないか」という風に。
言葉をあげることができない&許されもしないある種のマイノリティ(と社会に分類されてしまう人達)が、その《言葉のあげられなさ》や《誰にも言えない秘密》と《それがバレてしまうかもしれないという不安感》を抱えている状態かもしれないままに、アスペルガー症候群や人格障害その他の病気などに押し込まれてしまうかもしれない状況は、なんとしても避けなければいけないのではないでしょうか。少なくとも、マイノリティというだけで、十分すぎるほどに抱え込んでいるものがあるのに、そこに脳の障害や人格の障害まで持たされたら、もうヘトヘトになってしまう。
もちろんアスペルガー症候群等を自覚することでいろいろと前進する場合だって普通にはあるとは思います。
が、それ以上に、アダルトチルドレンやひきこもりやニートやメンヘラや”ホモ・オカマ”やオタク(!)がある種のレッテル貼りとして機能してしまった部分の方がかなり大きかった過去を振り返ってみるだけでも、アスペルガーがいまの”一般的な解説”どまりの方向性のままで啓蒙をされていくと、同様の歴史を繰り返してしまうのではないか。
ちょっと絶望的観測に過ぎるかなという気がしつつ、そんな風に考える部分があるのですが、いかがでしょうか。
おがさわらたけし